11月29日の旅の続きです。
ランチはこちら
本日の目玉で一乗谷の遺跡の内部に建てられています。まず、説明ビデオを見て、ボランティアガイドさんの案内(レベル高し!)で館内を巡りました。ほぼ全て写真OKでした。
 
朝倉氏とは
朝倉氏は兵庫県但馬(養父市)の出身で平安末期から記録が確認できる!何と朝倉城まであるやん。

 

斯波氏が応仁の乱の当時者となって、京都で争っているうちに朝倉氏が越前を領主の座を奪い下剋上。以後、5代100年に渡って一乗谷を拠点とし、北陸を治めました。最盛期は2kmに満たない狭い谷間に1万人もの人が住んでいましたが、住環境は良好でしたびっくり

 

町の中心部のジオラマ
 
道幅が広く、確か8メートルで、自動車の行き違いができます。微妙に道が曲がっていて振り返ると、あれ、どこから来たんやっけとなる防衛上の仕掛け(遠見遮断)があるのが、よくわかります。

 

最後の室町幕府将軍足利義政を屋敷に迎えました。が、ほどなく、織田信長によって滅亡(1573年)悲しい

 

バスの中で、京都国立博物館の降矢哲男氏から朝倉氏滅亡の理由の説明がありました。

 

1、周囲の寺社勢力、加賀の一向宗永平寺、が強く領土の外に進出できなかった

→信長の比叡山焼き討ち(1751年)の後ろに朝倉氏ありなんやけど、こういう状況やど比叡山延暦寺と手を結ばざるを得ないわ

 

寺社勢力には徳川家康も悩んどったし

 

2、正式な守護大名になることができなかった

 

3、朝倉義景には跡継ぎいなかったために、人質が出せず、武田氏との連携もうまくいかなかった

→アンチ信長の同盟者、武田信玄が比叡山焼き討ちの後、ほどなく(1573年)没しているからこれはいかんともし難いね、

 

家康には実は多く側室がいたから、後継ぎ問題なし。豊臣家が滅んだのも、おそらく秀吉の子ではない秀頼一択だったのも一つの要因やね。

 

その後、福井を治めた柴田勝家(信長の妹、お市の方の再婚先)が天守閣を築くには一乗谷は手狭やったので現在の福井城近辺に城を築きました。そのため、一乗谷は滅亡時の状態で時が止まった状態で維持されました。遺跡の発掘は50年間も継続中で、現在でようやく2割、これからも出土品に期待できます。

 

出土品からも発掘された家の佇まいからも、繫栄を誇っていたことがわかります。驚いたのは今でも路傍で見かけるお地蔵さんなどの石仏。
石仏の上から金箔が施されたらしく、手にもった宝珠に残っています。
 

ベネチアングラスの破片も出土しています。宣教師ルイス•フロイスも朝倉氏滅亡後に福井を訪ね、その文化のありようをを「高貴」と評したようです。
 
遺跡を目当てに全国から人が来ます。滅亡後もなお、福井経済を潤す朝倉氏、ほんまええ領主やんニコニコ
 
遺構展示室
博物館建築の事前調査で発見された遺跡がそのまま、保存されています。カビが生やさない湿度、劣化を引き起こさない明るさなど様々なファクターが考慮されています。
 

 
石がゴロゴロしているのは、当時は河原で、港があったとされます。一乗谷には田圃がないので、河川による物流は生命線。
 

 
商人が落としたと考えられるお金も見つかりました。
 
朝倉館原寸再現
将軍を迎えた館の原寸再現がありました。柱の礎石を基に平面は忠実な再現て、積雪に耐えるため、畳の大きさが京間より小さく、柱が太い。天井の高さは推定。
 

館の中庭には花壇がありました!遺跡で撮った写真↓

 
 
土から花粉が検出されわかったことです。室町時代って、華道の発祥時期やけど、花壇があったんや。

 
足利義昭を迎えた=高い文化力
正室を京都の公家から迎えて文化力向上を図りました。
 
饗応メニューも残っていて、ウナギやかまぼこ、からすみなど今でもごちそうです。
 
襖絵は浅倉氏がパトロンだった大徳寺真珠庵を参考に復元しました。写真ない😅
朝倉氏は一休禅師に帰依していました。
 
 真珠庵についてはこちら↓

 

 

続く