一乗谷朝倉氏遺跡博物館
越前朝倉家発祥の地、但馬の朝倉城跡。 pic.twitter.com/S2yztQUbdh
— こー (@ko_ayaori) November 4, 2023
南北朝時代に新田氏攻略に加わり、守護大名斯波氏(足利氏の支流)に仕えて越前にやってきました。
斯波氏が応仁の乱の当時者となって、京都で争っているうちに朝倉氏が越前を領主の座を奪い下剋上。以後、5代100年に渡って一乗谷を拠点とし、北陸を治めました。最盛期は2kmに満たない狭い谷間に1万人もの人が住んでいましたが、住環境は良好でした
最後の室町幕府将軍足利義政を屋敷に迎えました。が、ほどなく、織田信長によって滅亡(1573年)
バスの中で、京都国立博物館の降矢哲男氏から朝倉氏滅亡の理由の説明がありました。
1、周囲の寺社勢力、加賀の一向宗や永平寺、が強く領土の外に進出できなかった
→信長の比叡山焼き討ち(1751年)の後ろに朝倉氏ありなんやけど、こういう状況やど比叡山延暦寺と手を結ばざるを得ないわ
寺社勢力には徳川家康も悩んどったし
2、正式な守護大名になることができなかった
3、朝倉義景には跡継ぎいなかったために、人質が出せず、武田氏との連携もうまくいかなかった
→アンチ信長の同盟者、武田信玄が比叡山焼き討ちの後、ほどなく(1573年)没しているからこれはいかんともし難いね、
家康には実は多く側室がいたから、後継ぎ問題なし。豊臣家が滅んだのも、おそらく秀吉の子ではない秀頼一択だったのも一つの要因やね。
その後、福井を治めた柴田勝家(信長の妹、お市の方の再婚先)が天守閣を築くには一乗谷は手狭やったので現在の福井城近辺に城を築きました。そのため、一乗谷は滅亡時の状態で時が止まった状態で維持されました。遺跡の発掘は50年間も継続中で、現在でようやく2割、これからも出土品に期待できます。
館の中庭には花壇がありました!遺跡で撮った写真↓