8月26日に展覧会を企画された山口隆介研究員による「聖地 南山城の神と仏」の講演会のあと展覧会を拝見。講演は会期中に展示物調査を行った最新知見の紹介が中心。ほとんどの仏像は一人では動かすことができないこともあって、チームで考えるとお話されていました。

 

南山城の文化財は飛鳥時代の仏教伝来に始まって、平安時代の山岳修験や阿弥陀信仰と続きますびっくり

 

以下、鑑賞メモと講演メモです。

 

飛鳥時代~奈良時代

神雄寺

橘諸兄の別邸だったともいわれます。行事の読み上げメモに使ったと考えられる木簡や灯明皿などが展示(展示No.9)

 

 

↓こちらでも紹介しています

聖武天皇と恭仁京についてはこちら↓

 

笠置寺

笠置寺に伝わる飛鳥時代の小さな金銅の誕生釈迦仏と(展示No.14)がおもしろかったけど、いい写真見つからなかった😿

 

本尊摩崖仏の巨大タペストリーがありました。

 

笠置寺についてはこちらも↓

 

 

摩崖仏が焼失した跡に描かれた室町時代の笠置寺縁起絵巻(展示No.20)がもので、写実的?に空白として描かれていたのが印象的。

 

平安時代前期

山岳密教

聖徳太子創建と伝わる神童寺は修験道が栄えたお寺で、珍しい弓をもった愛染明王(展示No.39)、円珍スタイルの不動明王(展示No.38)などがお出まし。

 

 

牛頭天王(講演メモ)

頭に牛をつけた朱智神社の牛頭天王(展示No.31)の神像は3つの顔で外部からの邪気が入らないように睨んでいます。神社は山城、河内、大和の国境に位置し、30年ぶりの公開。

 

木津川市の松尾神社の牛頭天王(展示No.32)も元は椿井の御霊神社(街道沿い)にあって同じ目的で祀られていたと考えられます。

 

呉越国王銭弘俶が造塔した銅製の塔、銭弘俶八万四千塔(展示No.52)も茶どころで知られる和束町金胎寺に伝わります(国内に複数あるらしい)

 

 

 

和束は奈良時代には聖武天皇が造営した二つの都、恭仁京紫香楽をつなぐ交通の要衝。

 

仏像比較(講演メモ)

和束町薬師寺の薬師如来(展示No.3)とそっくりといわれる蟹満寺の阿弥陀如来像(明治維新後にお迎えした客仏)(展示No.3)の比較も。共通する特徴の一つが足先を衣で包んでいること。

 

詳細は割愛します。

 

平安時代後期:九体阿弥陀仏

平安時代の末法思想とともに流行した九体阿弥陀仏ですが、現存するのは木津川市の浄瑠璃寺のみ。

 

お寺ではこんな感じ、実際にはもっと暗かったような記憶が。

 

扉の向こうに仏様ずらりなんで、ちょっと「不思議の国アリス」感。

 

奈良国立博物館の文化財保存修理所で修理を終えたばかりの二体が並んで展示されていました(展示No.61)。

 

光背は別に展示されているので、背中までしっかり拝見できました。

 

お寺では蓮華座は見えません。二つの像の高さはそろっているものの、パーツの高さが微妙に違うそうですが、展示だけで気づく人はすごいわ。

 

↓運搬作業って、これ皆、無事終わりますようにって祈っているやろうな。

 

鎌倉時代

笠置寺の釣鐘(展示No.77)は1196年に制作の銘が入っていて、東大寺を再建した重源解脱上人、貞慶に寄進。

↓こちらをたどると鐘の音を聞くことができます。

 

藤原信西の孫、貞慶(アンチ専修念仏)は弥勒信仰を盛り上げました。笠置寺に居住後後、海住山寺に移りました。

 

 

展示No.68↓

 

貞慶の弟子が後鳥羽院の近習であった慈心。

貞慶存命中の海住山寺の国宝五重の塔の内陣扉絵も展示(展示No.84)されています。

 

海住山寺の四天王(展示No.85)は彩色の残りが素晴らしい! 東大寺にあったもの(現存せず)をモデルにしたらしい。

左切れてます😅

 

現光寺にも同じ四天王をモデルにした仏像が(展示No.113)。

 

笠置曼荼羅には十三塔が描かれていますが、これは貞慶が釈迦の墓所として作ったものらしい。

 

貞慶自筆の海住山寺起請文(展示No.88)では、尼はダメ🈲、本寺である興福寺も容易に入れるな、書かれています。

 

その他

•京都西陣の興聖寺に伝わる鎌倉時代の一切経(展示No.98)は元は海住山寺にあったんや。

 

 

•琉球布教で知られる袋中は一切経の修復にかかわり、木津川市の瓶原(みかのはら)に庵を結んだ(展示No.134,135)。

 

 

 

•十一面観音像が充実、後ろまでお顔がそろっています。

展示No.1

 

展示No.112

 

•木津川沿いの大智寺には行基が奈良時代に架けた橋の柱を使って作成したと伝わる文殊菩薩が本尊(展示No.109)。

 

 

(終わり)