奈良国立博物館で開催中の「聖地 南山城-奈良と京都を結ぶ祈りの至宝-」の講演会「華開く仏教文化~南山城の古代寺院から」を聴講(7月29日)

 

 



講師は考古学をご専門をする菱田哲郎先生(京都府立大学)。

 

木津川流域の南山城は京都府南部ですが、奈良の文化圏に属します。

 

行基が建てたと泉大橋は木津川が北上する手前あたり。

 

 

 

蟹満寺白鳳時代の創建とされ、本尊は国宝で白鳳仏で、今昔物語に登場します。

 

 

↓2012年の記事やけどおもしろい。

 

南山城の仏教文化が栄えたのは奈良時代かと思っていたけど、仏教伝来直後から飛鳥とつながっていますびっくり

 


飛鳥寺•川原寺の瓦が高麗寺へ

古代の主要道や木津川の舟運からみた交通の要所にあった高麗寺(こまでら)は飛鳥時代に建立。日本書記や平安時代初期の仏教説話集日本霊異記薬師寺の僧が書いた)に登場しますが、10世紀に消滅したようです。

 

 

 

日本で最初の仏教寺院とされる飛鳥寺と同じデザインの軒丸瓦が出土したことから、蘇我氏と付き合いがあったと考えられます。

 

飛鳥寺の瓦のデザインの大半は法隆寺に引き継がれ、さらに大阪の四天王寺に伝わります。

 

少数ですが瓦の一部は高麗寺に引き継がれましたがどの堂宇に使用されたかは不明です。

 

高麗寺には天智天皇建立と伝わる官寺川原寺と同じ系統の瓦も見つかっています。

 

 

高句麗 vs 百済

飛鳥時代、朝鮮半島では高句麗百済が仏教先進国で、新羅が後進国。仏教を公伝した伝わる百済と高句麗は仲が悪かったため、欽明天皇の時代、高句麗は日本海ルートで石川県に上陸。飛鳥から北陸に抜ける途中が南山城。現代でも拉致被害が北陸海岸で起こることに通じるのが恐ろしいガーン

 

高句麗から使者が来た際に設けられた滞在先、相楽館(さがらかのむろつみ)が後に高麗寺となったようです。京都府相楽郡という地名の由来。

 

ふむふむ↓

 

木津川市には上狛(かみこま)と下狛(しもこま)という名前が現在も残り、高麗寺の北側に位置する蟹満寺からも高句麗系の軒丸瓦が出ています。

 

聖徳太子の仏教の師は595年に来日した高句麗出身の恵慈

 

有名な遣隋使の手紙↓を書いたのが恵慈という話を別の講演会で聞いたことがある。

 

朝鮮半島からみると日出づるところ=日本、日没するところ=中国で感覚的に納得できる。怒らせるのも高句麗の国益を考えたやろうし。

 

大阪の高麗橋も南山城にあった高麗館(こまのむろつみ)が難波に移って名前が残ったかもとおっしゃっておられました。

 

一方、百済は和歌山から日本に上陸とさらっと説明されたので、後でチェックしたらたぶん和歌山市

 

和歌山には巨大古墳群岩橋千塚古墳群があって朝鮮半島由来の品も出土するらしい、なるほど。

 

播磨(兵庫県西部)からも瓦

高麗寺跡から播磨国府系の瓦も出土します。補修に使用されたようです。

 

天平時代に播磨隋願寺の僧、宋常が高麗寺に移ったという記録があります。

 

隋願寺は聖徳太子の命によて高句麗の僧が建立したという伝わる国府直轄の寺です。播磨の国は法隆寺の荘園があるので、寺伝はもっともらしい。

 

宇治橋

宇治橋は高麗に留学していた僧、道登が646年に建てたと伝わります。

 

道登の出身地は↓あたりと推定される

 

この辺りも高麗系の瓦を使っていたらしい。

 

仏教行事のニューウェーブ

木津川市の神雄寺(かみおてら)は聖武天皇が造営した恭仁京東大寺の間に位置します。多量の灯明皿が出土したことから万灯会が行われていたと考えられています。

 

 

唐から伝来したと考えられる横鼓も出土しています。似たような横鼓が正倉院にあるそうです。

 

 

 

奈良時代から平安時代に流行した悔過(けか)の法会専用の建物があったのではないかと考えられています。

 

本尊の候補は観音菩薩、薬師如来、吉祥天。

 

悔過は日本書記に続く日本の正史続日本紀(797年成立)に登場します。

 

 

東大寺二月堂のお水取りとして現在まで伝えられています。

 

聖地が泉が湧く、山間にあるというイメージも同じ頃に成立したようです。そのイメージを今日まで伝える浄瑠璃寺

 



(終わり)