小学生にも馴染みがあって漢字で書ける子も多いやろう聖武天皇

 

 

25年の治世は長く、その間に天皇制律令制の曲がり角があり、晩年のハイライトはもちろん大仏開眼。

 

聖武天皇が成人するまで、元明天皇(文武天皇の母、草壁皇子未亡人)と元正天皇母娘で繋ぎました。平安時代なら、幼帝にして上皇が実権を握った可能性が高いらしい。

 

 

 

 

藤原氏の台頭

当時、中継ぎの天皇になる可能がある皇后は皇族からと決まっていました。推古天皇あたりからの伝統なんかな。教科書にも登場する光明皇后は藤原家、つまり「民間」出身で、729年に立后。これが皇室制度の曲がり角

 

光明皇后が生んだ男子が夭折したために、天武天皇の孫で政治的手腕のあった長屋王の息子達は皇位継承者としてスポットライトが当たりました。聖武天皇の母も藤原氏で民間、長屋王の母は天智天皇の皇女なので長屋王のほうが血筋は格上。長屋王は光明皇后の立后にも反対しました。

 

 

これが仇になって皇后の兄弟である藤原四兄弟に抹殺されたのが長屋王の変

 

多量の木簡が出た長屋王の巨大な邸宅跡。

 

現在はミ・ナーラ

 

 

王寺町の講座で、「天皇と皇后は同じ年で、仲良しカップルでした」と説明があったんやけど、意味深かも。

 

程なく、遣唐使の帰国と共にもたらされた天然痘で藤原四兄弟が亡くなりましたガーン

 

公卿もかなり亡くなっています。

 

最近、毒殺説が出て来ました。四人一度は都合がよすぎるから、全員でないにしろ毒殺は十分ありでしょう。

 

遣唐使がら持って帰った使い勝手のよい毒は正倉院現存する治葛(やかつ)と呼ばれる薬です。

 

 

 

フランス貴族が大量虐殺された宗教戦争、サン·バルテルミの虐殺、天平版かもしれません。

 

吉備真備玄昉の帰国は735年、御物は聖武天皇が遺愛の品コレクションなので、756年以降に形成されました。20年間、毒がどのように使用されたかは藪の中ガーン

 

平城京との天皇とは血統が違う桓武天皇は毒殺を避けるために、平安遷都して、寺を中に入れなかったのかしらとさりぃは思っています。

 

藤原宮子

天皇の母は文武天皇の夫人(皇后、妃につぐ律令制で定められた地位)。系図では皇后の腹違いの姉ですが、海女の娘という言い伝えもあります。

伝承に基づいたご当地キャラ↓

 

たぶん養女というのは本当で、この手の抜け道があればこそなんとか成り立つ近親婚の繰り返し。

 

天皇を産んだ後、宮子は心の病ということで幽閉され、天皇は37歳になって初めて彼女と対面。この時、唐から帰国した僧玄昉が病気を治癒したと伝えられます。藤原4兄弟が亡くなった直後やけど、玄昉が犯罪ドラマならプライムサスペクト。もちろん、頼まれたんやろけどね…

 

帰国が叶わなかった阿倍野仲麻呂

遣唐使の歓送会(宴)はみかさ山の山麓で行われました。命の危険もある旅なので、さぞエモかったやろ。

 

吉備真備や玄昉と同じ時に阿倍野仲麻呂も出発しましたが、帰国は叶わず玄宗皇帝の元で活躍。

 

百人一首でよく知られている歌は御蓋山のほうです。

 

 

↓こんな元祖マンガ的な絵巻が現存しているんや。

 

現在は春日山原始林として世界遺産。こちらは王寺町観光協会のツアーで奈良市埋蔵文化財調査センター元所長の森下恵造先生のツアーで学びました。

 

 

(続く)