近鉄文化サロンの「近畿の名城探訪」ツアーで大和郡山へ。
大和郡山の成り立ち
豊臣政権といえども強力な奈良の寺社勢力はおいそれとは統治できません。
秀吉の弟、秀長が大和郡山城を居城とし、大和大納言と呼ばれました。奈良の商売任を大和郡山に集めて、町の経済活性化を図りました。箱本制度という商人の自治システムなども導入(説明は割愛)。
秀長の菩提寺、春岳院の前を通過。
豊臣秀長の菩提寺である春岳院に行ってきました!
— 緑🕊鵬(りょくほう) (@aisle_iceberg) July 30, 2017
秀長様の肖像画(の複製)と、秀長様の大和郡山時代に施行されていた『箱本制度』という郡山の町人による自治制度の当番表や、郡山以外の場所での商業を禁止する旨が書かれた文書がありました。
本堂で和尚様からお話を伺ったのですが、→ pic.twitter.com/gPUTkwbUc2
大徳寺塔頭でも菩提は弔われています。秀長については↓で紹介。
ガイドの松尾先生(元大阪城天守閣館長)は豊臣政権は身内が次々と亡くなっていったので続かなかったと説明されていました。人材不足に手詰まりになったということですね。
町人地は城の北東にあります。
嘉永の大地震(1854年)で倒壊した後、1855年の再建された和菓子屋さんの店舗。
古地図と同じ場所にあります。
なぜ、大和郡山が交通の要衝だったかという説明が店内に。天正年間、関が原の戦の前からの営業。
店の内部。
お堀につながる水路ですが、「酔って帰宅は危険!」、「脱輪するやん」の声が参加者から。
外堀の一部は公園として保全。
大火の後に建てられた火の見やぐら(1686年)も再建。
明治維新までの区画割。
さりぃは名前だけしか知りませんが、荒木又右衛門は大和郡山出身の剣士。
実は『荒木又右衛門 鍵屋の辻の決闘』は観賞初めてで荒木又右衛門もあまり知りませんでした😅大和郡山藩の剣術師範ということでめっちゃ地元で驚いた!!撮影も薬師寺さんが出てきてテンション上がった(笑)三船さんも荒木又右衛門を演じておられるので三船さんの荒木又右衛門を観てみたい!! pic.twitter.com/8NlixVdeap
— 若宮明日香 (@aska1941) September 11, 2021
大和郡山城
東大寺の荘園にできた鎌倉時代の土塁がはじめと言われます。戦国時代、信貴山城にいた松永久秀が一旦、大和地方を平定。
織田信長は最初、久秀を支援していましたが、筒井順慶に乗り換え。
順慶が大和守護になり、1580年に築城を開始。
本能寺の変の後、順慶は豊臣方につき、筒井家は伊賀に転封。その後、秀次が郡山城に入り本格的に城を造営しました。関ケ原の戦い以降に藤堂高虎などよって建てられた城は正方形。それ以前の城は地形に合わせていて、郡山城も濠もこんな感じ。
関ケ原の戦いの東軍の主力は元は豊臣恩顧の大名。戦後、彼らは大阪よりも西に領地替えをされて、新しい城を立てました。名古屋の清州から広島城に入った福島正則とか典型やわ。
升形に相当する部分です。近世の城郭では門が二つですが、ここはデザインが古いので1つだけ。
ここら辺は石が取れないので、寄せ集め。平城京の遺構からも(矢印)。
急いで整備したののでびっくりリユースがいっぱい。
お地蔵さんも動員。逆さというといのは下を向いているということです。
頭塔からも。
これらの石仏はお城まつりの時に供養されるそうです。
おそらく発掘現場そのまま。
天守閣があったことは発掘から確定しましたが、復元するにはまだ資料が足りないといった状況です。
豊臣家らしい金のついた瓦も出土。見張り台兼権威の象徴として天守は必要だったのでしょう。
天守閣は徳川家康によって、伏見城に移築され、二条城の天守閣になり、家光によって淀城に移された後に落雷で消失。天皇が昇った唯一の天守かもしれない。
二条城への引っ越しを書いたのは二条城の建築に携わった中井家やからほんまでもおかしくない。
遊郭建築
時代はかなり下って大正時代の遊郭建築を見学。ここらへんは元は江戸時代の門前遊郭(洞泉寺遊廓)として発展していたようでこの一画が全て遊郭でした。
大和郡山市の洞泉寺町遊廓。 pic.twitter.com/UzOqdYPsZe
— 第二京都主義 (@t_okuno) April 17, 2022
関東大震災の直後に第一次世界対戦が続き大阪の経済が伸びて大大阪時代(だいおおさか)突入の時期の建築。
総3階建ての木造建築で登録有形文化財を市が買い取って、耐震補強に7800万円をかけて公開中。所有者のプライベート空間と遊郭空間が一体となっているところが特徴の一つ。
↑ガイドさんの説明、秀逸やったわ
台所の吹き抜けの猪の目窓、本来は魔除けで寺院建築に使われているらしい。以前はもっと煤けていたそう。
上からみると
「ハート形」と呼ばれるようになったのは任天堂のトランプが普及してからだそう。
京都発祥の任天堂についてはこちらに書いてます。
欄間の上が空いているのは練炭を使うので一酸化炭素中毒を防ぐためだそうです。
こちらはお客さんが使う階段。
従業員の皆さんがそれぞれのお茶碗を置いた棚。中庭の向こうは所有者のプライベートスペース。
戦後、売春防止法が出来た後はきっぱり廃業。それがはっきりしているから今回の買い取りにつながったのかも。
次は下宿屋さんをされていたそうなので、その時もお茶碗の棚は使っていたのかな。
桟の上にある穴は鉄格子の痕跡で戦時中に金属供出しました。
こちらは表側2階の格子。
この階段は「燃えよ剣」に登場。
↓このブログ修復前なので、面白い。
ひな祭りの展示があります。大階段もこんな感じ。
大和郡山市の遊廓、旧川本家で展示されてる大雛壇見てきたよ! 三階建ての大きな遊廓建築を内部から眺める機会はなかなかないから、大喜びで写真撮ってた。3月6日までなので、みんな見に行くがよろし。 pic.twitter.com/QoUogTjdP9
— 源道寺梅蔵 (@ume_43) February 21, 2016
廊下の一部には分厚いガラス板が嵌められて下を金魚が泳いでいたとか。これは夏にちょっと再現してほしいかも。
(終わり)