↑の本の続きです。

 

法隆寺は世界最古の木造建築として、1993年に日本で初めて姫路城と共にユネスコ世界遺産に登録。ご近所の法起寺(聖徳太子の息子山背大兄建立)も遺産に含まれています。

 

 

法隆寺は再建?

日本書記に、法隆寺の同じ年に二回の出火が記されています。戦前の発掘調査から若草伽藍と呼ばれる現在の西院伽藍の東南に伽藍の跡が見つかりました。聖徳太子建立の創建法隆寺です。ブラタモリでも紹介されましたが、非公開区域です。

 

法隆寺のHPの図にも点線で現れています。下の図では点線はちょっと見にくいかもしれません。文字はさりぃがいれました。面白いのは若草伽藍は南北の軸に建物が並びますが、斑鳩宮の区画割に合わせた軸で現在の軸とは違います。

写真は夢殿側からで、左手奥のの塀の向こうに若草伽藍があります。

 

創建年代に絡む謎

金堂の仏像の年代と壁画の年代が違う、

火事で焼けた創建法隆寺の元本尊と考えられる仏像なども運搬や火事の損傷がない(岡倉天心も指摘)

仏像の光背に書かれた銘文の解釈

 

 

武澤説

天智天皇が今の金堂を建てて、創建法隆寺の中身を引っ越し後、創建法隆寺を意図的に焼いた。

 

もっともに聞こえます。天智天皇は法隆寺に対する財政的な援助も行っています。

 

で、怨霊封じは?

前のブログでは中門の柱はデザイン上の問題で、おそらく怨霊と閉じ込めるためではない紹介しました。だとしても、呪詛がないと言い切ることはできません(十分条件でないって話ね)。

 

 

太子の息子山背大兄王が蘇我入鹿に襲撃されて、創建法隆寺が集団自死の場となりガーン、太子の血統は絶えました。怨霊封じが行われるようになったのは平安時代以降なので時代は大分下ります。平安時代ならデフォルト怨霊封じという状況です。梅原さん、哲学者で歴史学者ではなかったので、確信犯だったのかな。柱が…と書くと、皆法隆寺まで見に行くのでお寺としては助かるはずです。

 

創建法隆寺の金堂は聖徳太子の創建ですが、五重塔は山背大兄王に引きつがれたようです。この塔の瓦の型が、舒明天皇による初の官寺である百済大寺に使いまわされたので、そちらの瓦のほうが精度が落ちます。これが紛争の原因になったのではと武澤さんは推察されています。さりぃは、乙巳(いっし)の変(昔は大化改新と呼ばれていた)と絡んで、襲ったのが入鹿というのを額面通りにとっていいか多いに疑問を持っています。日本書記は入鹿を滅ぼした天智天皇の娘、持統天皇プロデュースですから。

 

 

 

太子の父用命天皇は31代、太子が仕えた推古天皇は33代。推古天皇の没後に皇位継承争いがおこり、舒明天皇は山背大兄王を制して、皇位に。その舒明天皇が建立したのが百済大寺。法隆寺はもともと用命天皇発願なので、彼の存命中に完成していたら初の官寺となっていたのでしょうか?これは要確認です。

 

武澤説

聖徳太子に人気に加えて山背大兄王が一族と共に自死の場になった建物自体がアンチ天皇家の拠点となりかねない。燃やして新しい法隆寺を立てて、聖徳太子個人崇拝を現天皇家が乗っ取った。

 

いつまにあの建物が…は現代でもあることなので、納得です。例えば、旧陸軍施設は国の研究施設に様変わりしてしたります。

 

壬申の乱を経て、天武天皇の代になった時に、法隆寺への援助が打ち切られます。現在の五重塔の柱には長いあいだ野ざらしになった痕跡があるそうです。その後、妻の持統天皇の代になって、法隆寺への援助は再開。直系の息子(草壁皇子)、息子が没後は孫(文武天皇)に皇位継承するために彼女はありとあらゆる努力を藤原不比等ともにしましたその時に聖徳太子という名称も生まれたようです。どうも厩戸皇子よりも古い名称らしい。

 

太子の個人信仰ばかり皇位継承をめぐる策略に使われたようですが、「冠位十二階」とか「十七条の憲法」はどこにいったんでしょうか?

 

伊勢神宮

この本で一つ大きな気づきが🙄伊勢神宮式年遷宮を決めたのは天武天皇で、始めたは持統天皇です。伊勢神宮には左右対称や南面など大陸の影響と、遷宮のために隣を空白にするというスタイル。

 

 

 

金堂と五重塔が並ぶというのは神社では社殿が横並びに並ぶことに通じるとも書いてありましたが、それも日本人の好みとして説得力を感じます。

 

結局、聖徳太子とは

ここまで書いて、さりぃは聖徳太子は天皇の実子だったのかという疑問を持つにいたりました?との付き合いという国家の緊喫の課題のために皇太子の格を与えられたおそらく見た目にも明らかな外国人?人気、実力、人徳を備えていたら、天皇になっていてもおかしくない。仏教に多少肩入れしすぎとみなされても。蘇我氏ともほんとうは血縁関係がないので、仮に襲ったのが蘇我入鹿としても蘇我家の内紛にもならない。ピンチヒッターの人気が出すぎて邪魔になったので、抹殺という話に変わります。聖徳太子本人、母、妻と続けて亡くなっていて、全員が自然死とは考えにくい状況です。

 

探せばありました。聖徳太子が外国人説。

 

 

読んでみよう。