後白河法皇の皇子が聖護院に入寺されてから、皇室から代々入寺が続きます。創建した白川法皇なので、歴史に強くないさりぃにはややこしい。

 

 

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「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」は白川法皇の発言。平清盛は彼の隠し子ではないかという噂があります。


今様狂いとされた後白河法皇は、保元(1156年)、平治(1159年)の乱の渦中の人で、鎌倉幕府成立のころに崩御(1192年)。三十三間堂で知られる蓮華王院を御所としました。建立したのは平清盛。

 

入寺されていた親王が、光格天皇として即位し、天明の大火で、御所が焼けた際には、聖護院は仮御所となっています。

明治天皇の父、孝明天皇も借皇居として使用されたようです。


公開されている宸殿上段の間は、これらの天皇もお使いになったようです。

 


後水尾天皇の宸筆、「研覃」(けんたん)。これは農耕機具のことで、自分を磨けということです。「角を立てない」という後水尾天皇のお心の現われで、額装は曲線です。


後水尾天皇の中宮は徳川将軍家から迎えた東福門院(和子)で二代将軍秀忠の娘。wikiによるとこの縁談、いろいろすったもんだあったようです。結局は「角をたてない」という天皇の御心でまとまったのでしょう。

 

欄間の隅にネズミの穴が開いていますが、いまでもネズミはいるようです。

 

狩野派の障壁画が多数ありますが、HPに説明があります。

 

詳しいサイト

 

これも

 


障壁画の他に、光格天皇ゆかりの網代(あじろ)輿と四方輿が公開されていました。四方輿は住職が御所に行く時に乗るための輿で300年くらい修復して使用中のものです。

 

 

真如堂もそうでしたが、聖護院も4度の火災により市内を点々とし、1676年に元の場所に戻りました。現在修復中の書院は現在地に落ち着いたときに女院のために御所から移築された建物(重要文化財)です。

 


(終わり)