サリィゴーランド

札幌でオルチャンめざしています。めざすは、AFTERSCHOOLのジュヨンちゃん!

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ヘアスプレー

映画ヘアスプレーを観ました。

歌って踊れる柳原加奈子ちゃんのはなしなのかなー、と思っていたけれど、そうじゃない。

おでぶちゃんでも、がんばっていたら、夢も恋も叶うよ、っていう、いかにもおんなのこが好みそうなシンデレラストーリーだったら、途中でやめてたけれど、そんなに、甘くないの。

もちろん、メインとなるおはなしは、おでぶちゃんのトレイシーが、自分の夢も恋もつかむ、というもの。


そこへ「人種差別」っていうスパイスが加わることで、すごく、ハッピーなのに、深みのあるストーリーになっていると思いました。


まさに、「ダークチョコレート」みたいな味わいで!


このおはなしの舞台は、1960年代のアメリカだから、黒人たちにたいする人種差別が、おもいっきりおこなわれていたと同時に、すこしずつ(もちろん、いまだって、差別がきれいさっぱりなくなったとは、わたしはおもわないけれど)、解決の兆しを見せ始めていたころなのでしょう。

(こまかいことは、きちんと調べていないので、よくわかっていませんが…)


そのなかで、「音楽」をとおして、若者同士のきもちが通じ合って、差別に対する否定の気持ちが底上げされて、最後には、みんながハッピーになっていた。


それって、すごく、すごいことなんじゃないかな。


いま、まさに、毎日暮らしているこの日常で、差別と名付けるのはいきすぎだとしても、「じぶんとちがう」ものにたいしての、排他意識というのは、それはもう、強烈にある。


トレイシーみたいなおでぶちゃんに対してだったり、ぶさいくであることに対してだったり、ダサいことに対してだったり、ちょっと変わっていることに対してだったり、セクシャルマイノリティのひとに対してだったり。


この映画は、そういうちいさな排他意識に訴えかけて、みんなでハッピーになりたいよね、はっぴーになれるよね、だって、おんなじ人間なんだものね、って語りかけて、気付かせてくれるものなのだと思います。


ものすごくわかりやすいかたちで、黒人たちにたいする差別の問題が描かれているけれど、すごくたくみだなぁ、とおもったのは、主人公トレイシーの母親役を女装した男優が演じているということ。


もちろん、おはなしのなかでは、彼女(彼?)は、たしかに女性なんだけれど、男優であることを知っているわたしたちからすれば、それは、セクシャルマイノリティを示す記号なんだよね。


ぱっと観ても、すばらしい音楽と、カラフルな色づかいと、明快なストーリー展開で、すごくおもしろかったな、って感じる映画だとおもいます。


でも、たぶん、これは、どんなちいさなことでもいいから、「集団から排除された」という経験があるひとがみるべき映画だとおもう。


これを観たら、元気づけられるよ、っていうきれいごとじゃなくて、すごくすてきな場所に3泊くらいの旅行に行ったような、ずんとした爽快感を、すごく感じられる、はず。





THE BLUE HEARTS 25th Anniversary TRIBUTE



THE BLUE HEARTS 25th Anniversary TRIBUTEのおはなしをされる、ROLLYさん。

日記も更新なさらないし、忙しいならいいけれど、元気なのだろうか…?と心配していたので、元気そうでとてもうれしい。

お化粧がうすいのも、すごくいいなぁ、と思います。

お化粧しているときも、もちろんかっこよくてすきなんだけれど、去年、はじめてROLLYさんのすっぴんを生でみたときに、ほんともう、ぶったまげました。


やさしそうで、すっごくかっこよくて、ときめいてしまったもの(笑)。


カラコンして、ぴしーっとしたスーツにフリルのブラウスのときもすてきだけれど(ロビン・ザンダー風スーツもすてき)、とっくりセーターに細いデニムで、革のジャケットですっぴんも、本当にすてき。

月末のclassical ROLLYは所用で行けないし、いつ会えるのかなー。

お勤めするってことは、たいへんなことだなぁ。

たくさんライブに行く金銭的な余裕はできるけれど、どれだけ、時間的に余裕か持てるのか、全く見当がつかないや…。

うぅぅ、そろそろ、卍パワーが…ほしいなぁ。

吉井和哉さんのこと

サリィゴーランド


ポニョをみたのがきっかけで、イエローモンキーや吉井和哉さんの音楽を、聴いたりしています。


小学6年生のときに、「楽園」のPVを観て、「世の中には、こんなにかっこいい男の人がいるんだ!」って思ったのを、すごくよく覚えています。


お父さんおじいちゃんとも全然違って、同級生とも全然違った。


おもえば、あれば、色気というか、フェロモンだったのかもしれない!


ひとめで恋におちて、それから、大学を卒業するまで、10年間、ずっとすきだった。


いまもすきなのはすきなんだけれど、遠くの親戚のおじさんに対する感情みたいなものです。


「あ、あのおじさん、元気かな!」「昇進したんだ、よかったな」みたいな(笑)。


思えば、10年間もすきだったのに、握手も、サインもしてもらったことないし、ライブもすごーく遠くでしか観たことがない。


吉井さんの眼球に、映りこんだかどうかさえ、定かじゃないもんなー。


ま、いちファンと、いちロックミュージシャンの関係なんて、そんなものでしょうが。


わたしが、吉井さんをすきだったのは、たぶん、いたいたしくて、わかりやすくなぞめいていて、子供じみていたからだと、思う。


いまだって、現実にすきになるのは、そういうおとこばっかりで、ほんとうに困っているんだけれど。

(おまけに、20歳くらい離れていないと、あまり心ひかれない、というありさま!おそるべき、吉井後遺症!!!!!)


イエローモンキーのときは、わたしもこどもだったし、あんまりわからなかったけれど、あれは、若干、商業主義的なニオイがするから、それについては、また別の機会に論じるとして。


吉井さんが、ソロになってからの曲というのは、吉井さんの持つ、後ろ暗い影みたいなものや、吉井さんのまわりにおきた出来事や、吉井さんのなかにある思想が、すごく色濃く出ていると思います。


そしてそれを、へんてこりんな言葉遣いで、たくみに変形させているけれど、あざといくらいに、わかりやすくもある。


わたしも詩を書いているから、吉井さんのこういうことばの扱い方っていうのは、すごく参考になっていたし、だいすきなんだけれど、決定的に違和感を感じたのは、2007年に発売された、シングル「WINNER」のころ。


そのころに、わたしが書いた日記。


>>「作家は、自分を癒す薬として、作品を作る」と言ったのは、三島由紀夫ですが、芸術家というのは、傲慢なもので、その自分を癒すための薬で、あわよくば、他人をも癒したいと考えているものです。
 吉井和哉さんのWINNERは、まさに、それが、顕著にあらわれているように思います。
いつの世でも、どこの世界でも、ひとというのは、もれなく傷ついているものです。
いつも、じぶんの傷を、誰のものよりの重症だと感じているものです。
吉井さんのWINNERは、まことに秀逸な、傷癒しソングであるかのように評されていて(彼自身もそれを狙っているのだろうけれど)、わたしもそれに異論はないけれど、でも、好きになれないのです。
この曲を聴いて、自分の傷に、絆創膏をはってくれた、ああよかった、とは、どうしても思えない。
吉井さんの作品の、癒し方、っていうのは、傷のあるひとたちに絆創膏をはっていくようなやりかたじゃないと、わたしは思っています。
もっとこう、傷ついたひとと同じくらいの自分の傷を「おなじようなもんですよ。」って腕まくりしてみせてくれるような。
傷とか、悩みなんていうのが、けっきょく、だれかと共有できるものじゃないということを知っているからこその優しさを感じていたけれど。
WINNERは、自分の傷口を必死におさえながら、たくさんのひとの傷口に絆創膏をはっているような気がする。
あしもとには、血がぽたぽたたれていて。
みんな、自分の傷が重症だと思っているから、その血に気づかない。
だから、WINNERは、痛い。
 とは言っても、人を癒せるものを作れる、というのは、すばらしいと思うけれど。
わたしなんか、傷ついたひとの前に、血みどろであらわれて、ぎょっとさせて気を紛らわさせてあげる、っていうくらいのことしかできないもんなぁー。


つまり、乱暴に言うなら、この当時のわたしは、WINNERに、「吉井和哉の偽善」をみたのだと、おもう。


傷だらけのくせに、ほかの人の傷を癒そうなんて、偽善だ、っていう思いと、他人なんてほったらかしにしていいから、自分の傷のことだけ、歌っていてよ、っていうきもちと。


吉井さんには、いまある傷口をザクッーーーと切り裂いて、えへへと子供みたいに笑って、くだらない冗談言ったあとで、うつむいてほしい、というのが、わたしの勝手なおもいです。


なぜか、よくわからないけれど、吉井さんの曲も声も詞も、わたしをわしづかみにしすぎるから、「たまに」じゃないと、身が持たない。




僕の彼女はサイボーグと崖の上のポニョ

この間、深夜にテレビでやっていた、「僕の彼女はサイボーグ」を観ました。


すごく、ずうずうしいのだけれど、去年くらいから(たぶん、薄化粧になってから)、何度か、「綾瀬はるかちゃんに似ている」と言われるようになって、それまで、まったく気にもとめてなかったのに、はるかちゃんが気になってしまって…。


あれよね、夢に出てくると、なんとも思ってなかったひとがすきになったりするでしょう、あれと同じだと思います。


じっさい、似ているかと言われたら、自分では、立派なあごに親近感を覚えるのみです。



が、しかし!


「僕の彼女はサイボーグ」のはるかちゃんは、尋常じゃないくらい、かわいい!


この映画を、ただ、綾瀬はるかちゃんがかわいいだけの映画だ、と評する人も多いけれど、それだけじゃないんじゃないかな、と思うのです。


監督が日本人ではないこともあって、感覚的に「あれ?」と思う部分もありますが、すごく繊細で、いい映画だな、と感じましたよ。


作品のなかで、主人公ジローの生まれ育った田舎(大地震をきっかけに町が再開発されて昔に姿ではいまは存在しない、という設定)に、タイムスリップするシーンがあるのだけれど、そのシーンに対しての批判が、すごく多いみたいです。


どこからどうみても、「ALWAYS三丁目の夕日」の世界観だから、です。


それが、1980年代生まれの主人公の設定と合わない、んだとか。


わたしは、これは、意図的なものなのではないかな、と思っています。


わたしも、主人公と同世代だけれど、「ALWAYS~」的な世界観というものには、ノスタルジィをかきたてられますから、あれは、「郷愁」という共通概念を映像化したのかしら、と感じました。



あともうひとつ、時系列が閉じてない、という批判もあるみたいです。


この映画は、いくつもの時系列が、同時進行している物語なのではないか、とわたしは考えています。


ひとつが、2008年の誕生日に銃撃され、半身不随になり、晩年に当たった宝くじを元手にサイボーグを作り、それを過去に送ることで過去の自分を守り、死ぬ人生。


ふたつめが、2008年にやってきたサイボーグのおかげで半身不随をまぬがれるけれど、過去を変えてしまったことで起こった大地震によって、サイボーグとの別れを経験し、数十年の後にサイボーグを復活させ、死ぬ人生。


みっつめが、2007年にやってきた未来人の「彼女」に会い、2008年にサイボーグに助けられ、大地震で壊れてしまったサイボーグと対面した後、未来人の「彼女」に再び再開して、また別の未来を歩む人生。


すごく難しくて、ずっと考えてるけれど、わからないんだけれど…。


2007年に未来人の「彼女」が来てくれないことには、未来のジローが、彼女の似姿のサイボーグをつくることはないわけです。


けれど、サイボーグをつくらないと、未来人の「彼女」は、ジローに会いに来ることはないわけで。


また、大地震のあとでふたたび未来人の「彼女」があらわれてしまっては、そのあとで、ジローはもうサイボーグを作ることはなくて、サイボーグをつくらないということは、ジローは2008年の誕生日に、銃撃されて半身不随になってしまうわけです。


…つまり、このふたりの関係は、基本的には前述した3つの現実を永久にループする物語なのではないでしょうか。


時空超えて、永久にループする、強烈につよい、恋物語なのではないかしら、とわたしは、思います。

(どうも、ほんとうのところは、映画のパンフレットなどに書いてあるのだとか。監督の意図はどうあれ、わたしの雑感です。)



奇しくも、同じ日に、「崖の上のポニョ」もテレビ放送されていましたが、ポニョと、この映画は、何かを超えて結ばれる恋物語である点で、共通しているように思いました。


ポニョは、さらーっと観たときに、ちびっこの恋愛未満のすききらいをみせられた印象で、ごそっと何かが足りない、と思ったのだけれど。


でもあれは、ノアの箱舟なのでは。


ポニョは、なんだかわかんないけれど、魔法をつかって、ものすごい洪水を起こして、町中飲み込んでしまいました。


洪水の翌日の海のなかには、「なんだこれ!」というような古代の魚が泳いでいたので、あれはおそらく、世界そのものが更新されたか、まぁ、「生」ではないどこか、とにかく、「いま、ここ」とは別の場所に変わったのでしょう。


崖の上のおうちで、ポニョは、宗介とふたりきりになった。


ポニョは、だいすきな宗介と、ふたりっきりになれたのです。


だけれど、宗介は、朝になっても、リサ(母親)が帰ってこないことに不安を感じて、探しに行こうとする。


たぶん、ポニョにとっての最大の敵はリサだから(男にとってのいちばんの女は、いつだって母親なんですもの)、ポニョは、ほんとうは、行きたくなかったんじゃないかな。


でも、ポニョは、一緒に探してあげるんだよね。


自分と、自分のすきなひとだけになるために、世界を転覆させる残酷さと、自分のすきなひとのために一生懸命になれるひたむきさ、それが、ポニョの油断のならないかわいさ、なんだと思います。


ポニョ、というか、宮崎駿さんの作品は、表層的に観ても大いに面白いんだけれど、深くみていくと、底が見えなくて、頭がこんがらがってきちゃう。


それが、魅力ではあるけれど。



「僕の彼女はサイボーグ」にしても、「崖の上のポニョ」にしても、すっごく雑にまとめるなら、何かを超えて、絶対的につながろうとする、強烈な恋愛ファンタジーというころができるのではないでしょうか。


わたしのは、あくまでも雑感です。


くわしい解説は、本職のかたがたにおまかせすることにしましょう。




それにしても、ポニョのお父さんフジモトは、吉井和哉さんにしか、みえないなぁ(笑)。

ダッフィーホルダー

mixiなどで、かなしい、胸が痛くなるような話題をよく耳にします。

ダッフィーちゃんの誘拐です。

ひとりでお留守番のダッフィーちゃんの連れ去りはもちろん、ちびっこや女の子のダッフィーちゃんの強奪や、かばんからぬきとったり、被害は、ぬいぐるみだけじゃなくて、ぬいばやポーチちゃんにも及んでいるみたいです。

愛情を持って、かわいがっている相棒と、はなればなれになるなんて、考えただけでつらすぎます。

・・・たぶん、わるいことをするひとは、いなくならないと思うんです。
だからこそ、社会には、法律や警察がいるんじゃないかな。

それなら、わるものに、自分のダッフィーちゃんを連れ去る隙を与えないこと、つまり、ダッフィーと片時も離れずにいることが大事なんじゃないかな、って思って、ネットのいろんな情報を参考に、ダッフィーちゃんのホルダーをつくりました。

用意するのは、100均に売っている携帯ストラップ2本。
ウルトラ級に簡単です。

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これを黒いとこで、外します。

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外した小さいほうを、写真のように、長いほうの真ん中らへんに縫い付けます。

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黒いカシャンとするやつを、ちゃんとはめてから、ダッフィーちゃんに通します。
言葉で説明しにくいので、写真を参考にしてくださいな。

前はこうです。

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後ろはこうです。


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後ろの輪のところに、もう1本のストラップをつけたら、首から下げることができるので、両手があくから、とってもらくちんでしょ!

黒いカシャンのとこを外せば、簡単にとれるし、上から洋服を着せれば、紐は隠れます。

ま、いちばんだいじなのは、こんなものをつくるより、自分の大事な相棒から、目を離さないことですが。

作ったはいいけど、わたしのインはいつになることやら。。。

一日もはやく、平和なケープコッドになりますように。
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