写真の中の女の子に殺された写真家 | 学生団体S.A.L. Official blog

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慶應義塾大学公認の国際協力団体S.A.L.の公式ブログです。

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今回、担当させていただくのは法学部法律学科1年神戸信紀です。
どうぞよろしくお願いします!!

突然ですが、みなさん、ピューリッツア賞は知ってますよね?内容はよく知らなくても、名前ぐらいは聞いたことがあるんじゃないでしょうか?

報道、文学、作曲に与えられる米国で最も権威のある賞です。
この賞に選ばれることは、写真家、作曲家、作家にとって大変名誉なことです。

しかし…一方で、ピューリッツア賞を受賞した南アフリカのフリーカメラマン、ケビン・カーターは、自分の撮った作品で自殺に追い込まれたと伝えられています。

カーターはかの有名な一枚の写真。スーダンで、飢えによりうずくまっている子供のそばで、はげたかが今か今かとその子が死ぬのを待っている写真を撮影し、ピューリツァー賞を受賞しました。

しかし、その直後より「なぜ子供を助けなかったのか」といった非難を世界中のあらゆる分野の専門家、団体から猛烈に浴び、心労となっていたと伝えられています。

カメラマンの仕事は、現場の状況をより鮮明に、より簡潔に伝えることができる写真を撮り続けることです。報道とは、常に第三者の立場で観察者でなければならないものです。どちらかに属する報道など、歴史の語り部、事象の記録のそれとしては、何の意味も持ちません。

カーターは、「伝える者として子供に何もしなかった。彼女は、写真を撮った後難民キャンプに帰っていった」とコメントしています。

僕はカーターは正しかったと思います。この子にこのとき、一回だけパンや水を与えても、結局なんの解決にもなりません。死ぬまでの苦しみの時間が伸びただけです。それなら、この現状をより多くの人に知ってもらい、大きな力を生みだすことのほうがよほど有意義です。(ただ、その力が長続きしないということはあります…)

人間は、理解できないものに恐怖や不安を抱きます。カーターの写真の場合、それは、女の子がどうなったのかという不安と、ハゲタカがこんなに近くにいるのに恐怖の色さえ浮かべない少女が、何を考えてそこにいるのか分からない恐怖、こういった要素が、人間をヒューマニズムにかりたてます。

カーターの場合、その少女の姿が訴えること、つまり飢餓・貧困が、飽食・飽物社会に住む自分のせいではないという写真の鑑賞者の抵抗が、ヒューマニズムとしてカメラマンに体現されたものとなったのです。

だから、題名にあるように、カーターはこの女の子に殺されたと言っても言い過ぎではないのです。

つたない文章でほんと、申し訳ないです。