「俺はね、インド人が嫌いなんだよ」
こう僕に語りかけてきたのは、タイ王国のバンコクで出会ったインド人でした。
「俺はね、むかしはデリーの旅行会社で働いていたんだ。俺の仕事といえば、問い合わせてくる旅行者にふっかけて、金を騙し取ることだたのさ」
「お前もインドに行ったことがあるならわかるだろう。デリー、アーグラー、ジャイプル、ヴァラナシ。どこにいったって、奴らは笑顔で親切そうにお前に近づいてくる。でも、奴らが実際に考えているのはお前が楽しく旅をできるかどうかなんてことじゃなくて、お前らを利用していかに金儲けができるかってことなんだよ」
「俺はそんな生活に背徳を感じたから、仕事をやめて、バンコクにでてきたんだ」
いま、人生で二度目の訪印を迎え、彼の言葉はかなりの説得力をもって受け止められました。何故なら、彼の言葉を裏付ける複数の実体験が僕にはあったからです。
たとえば、先日、スタツアで行動を共にする川又がこのブログに書いていたような、アライバルビザ取得時におけるトラブル。
傲慢な物乞いと、ボッタクリ露店商。
先日はデリー市民によるデモに遭遇しました。敵は、腐敗する政府。
もちろん、インド人の中には素晴らしい方もいます。また、例えその裏に何か理由があったとしても、しかし、事実として、インドでのネガティヴな経験は枚挙に暇がありません。そして、それらのうちのほとんどが、「自己中心性」という概念をもって理解しようとすれば合点がゆくという事実は、なかなかに重大な問題だと思います。
なぜ他者を顧みず自己の利益を追求する自己中心的態度が問題であるかといえば、それはひとつに幼児的であるからであり、さらに、そのような態度はしばしば人々のあいだに亀裂をもたらすからです。
僕がこのインド人の精神性に関する印象をあるスタツアメンバーに打ち明けたところ、こんな答えがありました。
「インド人は自分の所属するコミュニティ内部のひとには優しいんだよ。ただ、俺たち外部の人間にはそういう態度を示してくるだけで。」
国内外を問わず進展するグローバル化。ますますフラットになってゆく社会。自分の所属するコミュニティの枠を超えて、個人と個人の脱ローカル的な接触の機会がふえてゆくなかで、私たちは新たに、既存のコミュニティの外にいる人々といかにコミュニケーションをはかってゆくかという課題を抱えるようになったのではないでしょうか。
したがって、私たちは、たとえいま自分と利害を共有する人間とのコミュニケーションに成功していたとしても、もはやそれだけでは許されない状況にあると認識するべきなのではないかと思います。
これまでインド人を例にとってきましたが、もちろん、僕たち日本人を含む、この問題は世界に住まう人間すべてが同様に一考に付すべきものです。何故なら、世界に存在する国際問題のなかには、このような自己中心的な発想に由来するものが決して少なくないからです。
では、国際問題の根本的要因ともいえる、人間の自己中心性。これに立ち向かうにはどうしたらいいのか。
実は僕たちの記憶の奥底に、その処方箋が隠されているのです。
「思いやり」
小さなころに、幼稚園や小学校で口酸っぱく投げかけられるこの言葉。あまりに何度も耳にするので、すっかり陳腐化してしまった言葉ではあります。
しかしながら、この言葉には、子供のように自己の利益を追求しつづけることをやめて、大人の理性をもって他者の視点に立とうではないか、そうして共生の道を模索しようではないか、という意味がこめられています。
陳腐化してしまったという事実は逆説的に、今日の社会において、「思いやり」という言葉の価値を再考する必要性を示唆しているのではないでしょうか。
文責:高田湧太郎