日曜日、何回かの満席に見舞われ
スルーしていた「ラフマニノフ」を観たのですが
これまた「う~ん」、とうならずにいられない内容だったので
感想はまたしてもパス。
最近「う~ん」ばっかりな映画、すごく観ている感じです。
そんな中土曜日に渋谷で観たもう1本
シネマライズで「ファクトリー・ガール」を観て来ました。
http://www.factorygirl.jp/index.html
(音が出ますよ)
ウォーホールが愛し、ボブ・ディランが(本人の名前は登場しない)
曲を提供したファクトリーのミューズ、イーディ・セジウィックの
儚く刹那的に駆け抜けていった人生を描いた映画です。
正直ウォーホールとかファクトリーとかアメリカのポップカルチャーに
興味がなければまったくもって共感できない映画だと思います。
由緒ある名家出身のイーディですが
最終的にはウォーホールにもボブ・ディランにも捨てられ
ドラッグ漬けになり31歳で亡くなってしまいます。
そのイーディが関わったアートが前衛的で歴史を変えるものであるなら
ミューズとしての印象も違ってきたのでしょうが
ファクトリーを最後にはいわゆる戯言と罵り
ボブ・ディランには愛されるチャンスを自ら逃してしまいます。
そして実家からの援助を全く受ける事が出来ず
ヘロインに堕ちて行く姿が描かれていきます。
わしはそんな映画の中のイーディを観て
「破滅型」の生き方をしているとか生き方に不器用だとかは
思わなかったけれど
結局は愛情に満たされてなかった可哀想なイコンと
見てしまいました。
ウォーホールにも愛されているようで、実際は全く愛されていない。
ボブ・ディランはイーディを救ってくれる手を差し伸べたが
それを跳ね除けてしまった。
ファクトリーの生み出すアートに
イーディはイコンとして君臨しながらまったく共感できなかった。
違うかな?共感することが結果としてできなかった。
そして重なり続けるすれ違いがドラッグに溺れさせてしまう訳です。
映画のラストではファクトリーから薬物治療施設に隔離され
リハビリに成功し、結婚もするのですが
最終的にオーバードーズで死亡すると描いています。
イーディは幸せそうに見えて全く幸せな人生じゃなかった。
そしてドラッグに溺れるのも必然であり
堕ちて行くしかなかった。
完璧なミューズとしてのパーソナリティがあるのに
それを結果として無駄に浪費してしまった。
堕ちて行くのは必然だったんだ。彼女にとっては。
それは「刹那的」に駆けて行ったからではなく
「愛するという事を知らなかった」ため。
「愛される事を知らなかった」ため。
商品として扱われるAV女優みたいなものと
シンクロするものをわしは感じたのでした。
勿論、AV女優にもほんの一握りミューズとして
幸せなAV人生を送れる人がいるように
60年代の「AV女優的な生き方」をしたイーディにも
路頭に迷うことなく幸せな人生を謳歌できたかもしれない。
それは紙一重なのか、それとも大多数にとっての必然なのか
どちらの力が得てして強いのか。
わしは後者だと思う。
イーディはウォーホールに見初められたものの
結局は消費されるものでしかなかったということ。
それに無自覚だった彼女の自業自得ともとれる結末。
そんな打ち上げ花火のような生き方に刹那を感じ
自ら飛び込む女性達がいるのも確かだけれど
わしだったら、なんかそういうの疲れちゃうな。