昭和56年7月、当時札幌で最大の宴会場を持つのが確実の京王プラザホテル札幌に「転社」しました。
仕事内容は宴会セールスで前職と変わっておらず「転職」にはあたらないと思い「転社」が妥当と判断しました。
札幌グランドホテルから27名が京王に移籍、グランドホテルの経営陣も若干焦ったようです。
というのも我々27名が京王に移ったあと、グランドホテル社員の給料が大幅に上がった由。
「グランドホテルの経営陣もやればできるんだ」と思いましたが、大量の人材流出がなければ、給料上げなかったの?
それはないよね、経営陣はズルい、大人はやっぱりズルいと改めて思いました。
さてグランドホテル経営陣への悪口はともかく、以下京王時代の想い出を記します。
①グランドホテルでの楽しい想い出を忘れていました、まずそれから報告します。
歌手・作曲家の平尾昌晃音楽事務所(正式な名称は忘れました)の秋の観楓会の道案内をしました。
グランドホテル⇒日高ユートピア牧場(昼食、今は営業していないと思います)⇒苫小牧ホテルニュー王子(旧館で宿泊)
⇒翌日千歳飛行場で解散 のルートで行われました。
総勢50名前後、大型バスで移動、一家族3人平均として150~180人が生活していたことになります。
平尾昌晃さんはじめ俳優の川地民雄さん(名前の字間違えてたらゴメン)葉山良治さんなど有名俳優が沢山いました。
特に苫小牧ニュー王子で夕食のあと地元の大きなスナックでの平尾昌晃ショー、みんなノリノリでたのしかったなぁ。
「星はなんでも知っている」「ダイアナ」等々平尾さんのオンステージ、タダで見ました!
②平成天皇陛下御夫妻をお迎えしました。
その年3月道庁担当営業マンから、7月に天皇陛下を京王プラザホテルで受け入れてほしい旨強い要望がありました。
当時の京王プラザの総支配人が学習院OBだったこともあり、京王でお迎えすることになりました。
理由として札幌グランドホテルの貴賓室(洋室)ルームナンバー464は4階、目の前が北海道ビルで道路1本しか離れてなく、見晴らしがよくないのです。
京王プラザホテル札幌のスイートルームは22階南向きで、目の前に札幌市内、少し遠くにススキノの夜景が広がり気分爽快になります。
多分それが原因かも?
京王のスイートルームの窓は防弾ガラスではなく、当時のライフル銃の有効射程距離のビルの屋上にすべて警察官が配置されたらしいことも後で伺いました。
それはともかくとして、野幌森林公園で育樹祭が行われることになり、それに陛下御夫妻がご臨席することになり、来道されたのです。
ビックリしたのが、先乗り荷物が美智子妃殿下が20個、天皇陛下が5個でした。
美智子妃殿下のお荷物20個は、ほとんどがお召し物、あらゆる天候の変化に対応できるように、との考えからご用意されたとのこと。
いかなる天候になっても対応できるように、お召し物を用意されたら大きなトランクが20個になった由。
トイレも宿泊されているホテルの自室以外は使用されないとのこと。
普段から水分は控えられている由、皇室は大変ですね。
慣れているとはいえ、お察しします。
天皇陛下御夫妻来館の詳報は、私の講演のなかで20分程度にまとめておりますが、正直に申し上げて気苦労が多く
一度お迎え出来ればもう充分というのが実感です。
でもとてもいい経験をさせていただきました。
③1件で1億9千万円の招待会を受注。
それまで札幌のホテル業界の宴会売上で、1件当たり6千万円前後が最高でした。
S化粧品会社の売り上げを大幅に超え、当時の札幌のホテルで断トツでした。
5月のGW直後に開催された、某精密機械の会社の優績者招待会です。
前年京都の都ホテルで行われた招待会を下見に行きましたが、ホテル料理を観た瞬間、札幌の勝ちと思いました。
ただデザートコーナーの京菓子コーナーだけは京都に軍配が挙がると思いました。
総合司会が徳光さん、入場シーンで京都の舞妓さんが15人ほど三味線の演奏とともに会場へ、これは素晴らしかったです。
ちなみに京王プラザホテル札幌でのオープニングセレモニーは、アイヌの儀式をテーマに考えられており、
いかにも北海道らしく素敵な映像が拡がりました。
ホテルの料理はウエルカムパーテイが一人16000円、昼食が一人12000円、夜の食事は一人15000円で
それぞれ950人分の用意が必要でした。
京都都ホテルがウエルカムパーテイ一人15000円、私はどうしてもそれより高くとりたっかたので最初フード単価18000円で提案したのです。
案の定、なんで都ホテルより3000円も札幌のホテルが高いのか、と先方社内で問題になった由。
折り込み済の反応だったので、北海道らしい美味しい料理を召し上がっていただきたいと強調、なんとか16000円でOKの返事をいただくことが出来たのです。
おかげさまでその年は調理長から、料理の原価率がなんの心配もないとお褒めの言葉をいただきました。
④キリンビールの恵庭工場落成祝賀会も楽しかった想い出です。
大阪から600人収容の巨大なテントを持込、前日スタンバイ完了で会場準備は出来上がりました。
当日はホテル調理スタッフやコンパニオン60名(確か)を大型バスで札幌から早朝移動、調理さん達も楽しそうでしたよ。
これだけ大型の出張宴会の経験は初めてで、当時の調理長から、
「伊東、オレここの調理長になりたい。推薦してくれ。」と冗談口調(でも本音かも?)でお願いされました。
勿論オープンパーテイは好評のうちに終了、お客様からもお褒めのお言葉を頂戴しました。
楽しい仕事でした。
⑤道銀頭取交代パーテイをグランド、パークと京王の3社三つ巴のすえ獲得。
7月始めが頭取交代披露祝賀会に決まり、3社とも決定宴会を受注済、グランド、パークは決定宴会の日程変更に失敗、
京王も難儀しましたが、宴会キーマンの先方責任者の説得に、神奈川県まで出向き説得に成功しました。
最初祝賀会を2回(道銀の主要取引会社対象約600人「確かライラック会?」と役所関係約200人の2回)に分ける計画でした。
私の読みで1回にする予想が的中、800名で一人10000円の予算と伺っていましたが、最初の見積もりで料理単価12000円で提出、結果合計2500千万円で決着しました。
大変申し訳ないのですが、道銀の担当者はほとんどホテル側(即ち伊東)のおすすめに従ってくれました。
昼のパーテイでの売上としては、上出来と総支配人からもお褒めの言葉をいただきました。
会場入り口で札響のピックアップメンバーによるお迎えのミニ演奏等、素敵でしたよ、一所懸命に考えてよかったな。
⑥母校札幌東高の同窓会総会でタダ一度だけ700人を超えました。
それ迄500~600人で推移していましたが唯一700人を超える歴代最高の出席者数を確保しました。
グランドホテル営業マン時代は、一番広い金枝の間が着席450人が最高でしたので営業にはいきませんでした。
あの熱気はいまでも覚えています。楽しかったなぁ。
確かOBの一人がブラジル在住でしたが、当日来札、出席いただきました。
現在の同窓会総会は250人前後に人数が減り、寂しい限りです。
想い出に残った宴会はこんなところかな、また思いだしたら報告します。
一般宴会獲得では古巣グランドホテルに勝つことが多くなり、恩返しになりました。
グランドホテル宴会販売部の上司の指示不足と判断のバラつきが目立ちました。
私のグランドホテルでの師匠が東京本社に転勤、後任宴会販売部の司令塔のレベルが落ちたのが原因と思われました。
余談ですがグランドホテルから京王に移った人材の中で、グランドホテルに再度スカウトする動きがあったそうな。
その最有力者に私の名前が出たとの事、(このことは当時のグランドホテル総支配人Fさんから直接聞きました)光栄なこととうれしくなりましたが、もしお声かけいただいたとしても、再度のグランドホテル勤務は難しかったと思います。
お金よりも大きな宴会場を売りたかったので、再度の札幌グランドホテル勤務はお断りしていたのはほぼ確実でした。
⑦京王プラザホテル札幌の法要プロジェクトリーダー
地下1階のバー改装で60人規模の宴会場オープンに伴い、当時1年間で2000万円だった法要の売り上げを
目標の1億円には届かなかったが9000万円にのばすことが出来ました。
過去の実績を分析東区、北区、厚別地区とその近辺へのDMを辞め費用を削減、新たに北広島地区の駅中心にDM配布を実施
1年後には大幅に売り上げを伸ばすことが出来ました。
法要専門の営業マンを1名作り、土日出勤にし出来るだけDMが届いた頃訪問するようにしたことも成績アップに寄与しました。
⑧元横綱輪島(引退してプロレスにいくかもと噂が乱れ飛んでいた頃)とお酒を飲みました。
・ライバルの北の湖さんはお酒が強く、サントリーオールド1本が30分で空いたこと。
・輪島さんは手首が平骨で私と比較しても1・5倍位ありました。
・左下手まわしを取れさえすれば絶対勝つ自信があったと教えていただきました。
ライバル北の湖さんは体重160キロ前後、左下手まわしさえ取れれば北の湖さんの体が浮いたそうです。
⑨私が宴会販売部の支配人(課長職)になった時、市内2~3ホテルから電話をもらいました。
「伊東さん、本当にテリトリーセールスから卒業したの?」
余程私が目障りだったんでしょうね、心から喜ばれました。
私が腕利き営業マン(?)であったことは事実ですが、私より優れた営業マンはたくさんいました。
ただ人より優れていた点は営業マンとしての基礎業務は、多分人より一所懸命にやったことだけは自信あります。
1,初めてお会いしたお客様には100%サンキューレターを出していました。
2,お詫びを逃げたことは一度もありませんでした、必ず直接お会いして目をみてお客様のお話をお聞きしていました。
3,担当会社一覧表を区ごとに作成、訪問件数だけは多分トップクラスだったと思います。
前の週の金曜に翌週の訪問予定を作成、効率の良い営業活動をしていたと思います。
4,担当の法人会合、結婚祝賀会には余程のことがない限り当日立ち合い、ご挨拶をかかさず次回の利用に結びつけました。
5、財界さっぽろ等地元経済誌を読み、お客様の横のつながり(どこの高校OBか?)を知るようにしていました。等々
⑩猜疑心の強い上司にパワハラを受けました
宴会販売の支配人になると館外接待費を会社から賦与されます、確か1ヶ月10万円だったように記憶しています。
私は3グループに毎月2万円をグループ内の一杯飲み屋代として渡しました。
それに加え、3グループのリーダーと月1回、飲み会を実施しました。
私自身もお客様との交際がたくさんあり、その費用に月4~5万円ほど必要でした。
勿論足りないので自腹をきってました。
ところが上司(部長職)が自分の使うのに忙しく、なかなか伝票にハンコをもらえず、気苦労が絶えなかった思い出がありました。
とにかく疑うのです。お客様ではなく仲間内で使ったのでは等々、狭量な人でした。残念!!
⑪他ホテル営業マンとたくさん知り合いました。
特にビジネスホテル勤務の多くの仲間には宿泊で随分お世話になりました。
お客様の多くは、札幌で泊まりたいが京王は予算超過、ビジネスホテルでどこか紹介してほしいといったリクエストには
ホテル仲間が随分協力してくれました。
感謝多々!
⑫シビルウエディングミニスターの資格を取らせていただきました。
デザイナーの桂由美先生が日本に紹介した、新時代にあった結婚式の形態です。
シビルウエディングミニスターについてはご自分で勉強してくださいね。
私が資格を取らせていただいた時、日本全国で多分50~60人が有資格者だったと思います。
東京まで資格を取りに行きましたが、試験には桂先生も審査員でおられ、相当緊張したことを懐かしく思い出します。
33歳で京王プラザホテル札幌に移り、連れ合いにも巡り合うことが出来ました。
子供達も何とか大学の入学金まで支払うことが出来、感謝いたしております。
しかし大学卒業の頃、伊東くんちの財政はパンク、金融機関からお金を調達、何とかしました。
二人の子供達もパリと台北で元気に暮らしており、数年に一度子供達に会いにいく楽しみも出来ました。
余談ですが、55歳の時、会社から給料を下げる事実を聞き、スカウトを断っていたルネッサンスホテル(当時)に転社しました。
噂に聞いていた通り社員間がバラバラ、各ホテルの問題児の集まりで総支配人も銀行出身、ホテルのことは何も知らない人でした。
色々なことがありましたが、おおむね京王プラザホテル札幌時代は仕事とプライベート両方で楽しく過ごせました。
今現在宴会販売部は私の過ごした昭和の時代の雰囲気が無くなったようです。残念!!
私の時代はグランド、パーク、後楽園ホテルに腕利き営業マンがおり、彼らと一つの宴会を取り合うのが楽しみでした。
最近はホテル同士の宴会獲得の鍔迫り合いの噂も聞かなくなりました。
時代が変わったと思います、これも時の流れでしょうか?
勿論ホテルの「格」もありますが、どこのホテルの誰が担当かによってこちらの気持ちも違ってきます。
現在のホテル業界の実情は知りませんが、強力なライバルがいたほうが、やりがいがあると思うだけどな。
みんな、そう思わない!
やはり昭和の時代が今でも懐かしく思い出されます。
いい時代にホテル営業マンとして働くことが出来たと「時代」に感謝する今日この頃です。
後期高齢者のたわごととお笑いくださいまし。
ただ残念なことがありました。
それは札幌勤務になった京王電鉄と京王プラザホテル新宿からの出向組は「札幌へ島流し」と自虐的な発言が目立ちました。
やがて年期奉公があけて、東京へ戻ることになった時のうれしそうな顔といったらなかったね。
自分にも責任があると思いますが、出向組と打ち解けた人はいなかったのです。
出向組のほとんどは会社のお金で夜の飲み食いをし、5年経って800万円貯められなかったらアホなんだと!
残念ながら人間として、好きになれなかったね。
ま、向こうもこちら現地採用組には親しい感情はなかったようだし・・・・・・
以上で京王プラザホテル札幌時代の想い出を終了します。
じゃ又ね。