売上増を実現する宴会セールステクニック

売上増を実現する宴会セールステクニック

小手先ではなく心構えからしっかり考える、目から鱗のホテルセールス実践論。当たり前だけど大切なことを、ご一緒に確認していきましょう!

 ● 年に一度プロ野球12球団が札幌に来ます。

選手たちも楽しみにしている北海道シリーズらしいですよ。

早く試合終わらせて、夜のススキノが楽しみな選手がたくさんいるんだって。

きっと馴染みの女性がいる飲み屋さんにいくのが楽しみだったんでしょうね。

 

 さてもう50年以上前のことです。

間違っているかもしれませんが、記憶を確かめながら以下書き進めます。

作詞家斎藤保さん(中の島ブルース)は熱烈な阪神タイガースファンでした。

彼の紹介で阪神タイガースの歓迎会が札幌グランドホテルでで開催されました。

昭和56年7月だったかなぁー(記憶はうろ覚えです)

明日の試合を控えて、レギュラー選手の殆どは歓迎会終了後自室に引き上げました。

二次会に行ったのは、のち監督になる中村コーチ、現役選手の遠井吾郎選手等計5~6名でした。

確か斎藤保さん経営のスナックに到着、飲み始めて暫くしてから遠井選手が私に、

「将来ののレギュラーが一人来ている」と教えてくれました。

その彼は前年の秋、阪神タイガースの練習に有望選手として招かれた高校3年生でした。

千葉県習志野高校です。

バッティングセンスが抜群で、二軍の有力投手を苦も無く打っていたそうです。

特に右中間、左中間へ見事な打球を打つ、左バッターで高校生離れしていたとのこと。

近い将来三塁のポジションを取るだろうと、一軍のレギュラー選手間の予想でした。

「名前はカケフというんだ」

まだ高校生の体格で可愛い顔した初々しい少年でした。

それから間もなく3塁のレギュラー佐野選手(?)がケガで休んだ後、カケフ選手がレギュラーの座を奪い取りました。

 

伝聞証拠①

 掛布選手は夜タニマチに招かれても必ず途中1時間位中座します。

そしてバットスイングを必ずすることがやがて分かりました。

この習慣は現役時代には1日も欠かさなかったとのこと。

やはり見えないところで努力していたんですね。

 

伝聞証拠②

 バットスイングの速さは球界NO1の評価でした。

当時巨人のON(王選手、長嶋選手)の全盛期です。

大洋ホエールズの福島捕手が証言していますが、一流投手のストレートは0・4秒余で捕手まで到達します。

投手が投げて本塁まで半分位まで来ると、ON といえどもどうにもならないとのこと。

ところが福島捕手によると、掛布選手だけは半分まで来た一軍の投手のストレートを苦も無く打ち返したそうです。

バットの素振りの音が ブーン→ビュン→ビシ に変わっていったらしいです。

確か掛布選手は180センチに満たない身長でしたが、弛みない努力の積み重ねで超一流選手になりました。

やはり見えないところで努力していたんだね。

以上がたった1回2時間位お会いした掛布選手の想い出でした。

交わした会話はほとんど無し。

無口な好青年でした。

 

次は大相撲の想い出です。

蔵間という関脇いたの覚えてる?

一緒にチャンコ鍋囲みました。

確か時津風部屋だったっけ?

 

じゃ、又ね。

 

 

 ホテル時代の数々の想い出を記します。

売上に関係がなかったけれど、印象に残っている出来事はたくさんありました。

以前ブログでアップした事柄もありますが、ホテル時代の総括です。

読者諸兄にはお許しをお願いします。

自慢っぽくなる表現が時々出てきますがご容赦くださいまし。

 

● 将棋タイトル戦を京王プラザホテル札幌に誘致。

 今将棋の様々なタイトル戦が、京王プラザホテル札幌で開催されています。

京王の22階に和室があり、将棋好きの私には是非タイトル戦を開催してほしいと考えました。

そこで当時の北海道将棋連盟のS理事長にお越しいただき、和室の客室を見ていただきました。

 加藤一二三先生(故人)が会場設営にあたり、厳しいご指摘があることを何かで読んでましたので、

照明の均等性、両対局者の外の景色の見え方等チェック項目は多岐にわたりました。

そこでS理事長(当時)にいろいろアドバイスをいただき、タイトル戦の開催可能ホテルになりました。

 

 やがて将棋の名人戦「羽生名人VS米長九段」が、北海道将棋連盟の推薦もあり実現しました。

プラザホール(当時はインドアプラザ)で大盤解説も実施、将棋ファンにも大変喜ばれました。

米長九段が唯一勝利した戦いでした。

双方とも居玉で戦い、米長九段が70手に満たない手数で勝利を収め、名棋譜になりました。

我々素人にはまだ中盤戦にしか見えなかったのですが、プロには違ったように見えたようです。

現在も女流名人戦を始め、数々のタイトル戦が行われているようです。

新聞でタイトル戦の記事を見る度に、和室の情景が思いだされます。

 

 ついでに個人的な事ですが、私が米長九段に叱られた(?)想い出を報告します。

当時JT日本シリーズも私が担当しておりました。

そのレセプションが京王プラザホテル札幌で行われていました。

 開戦の前夜両対局者を始め日本たばこ、道新、扱いエージェント(確か第一広告社)、京王プラザホテルのイベント担当者(伊東)等で立食パーテイが行われていました。

 それぞれの会社から1名ずつ挨拶があり、ホテル代表として私伊東もご挨拶させていただきました。

緊張のあまり何を話したのか記憶にありませんが、スピーチ終了後米長九段に、

「スピーチ短くでポイントを押さえておりよかったよ」

とお褒めの言葉を頂戴しました。

私は「全然自信がないです。思っていることの半分もしゃべれなかったです」と申し上げました

すると米長九段は、少しムッとした声で、

「あなたは素直でないな。私が初対面のあなたにお世辞を言う訳はないでしょ。あなたにお世辞をいって私の棋力があがるわけでもないし、初対面のあなたにおべんしゃらを言って私に何のメリットがあるんですか!もっと素直に喜びなさい!」

とダメ出しを食らいました。

確かにその通りです。私も素直に反省しました。

「米長先生ごめんなさい先生に褒められうれしかったです」

今になって思えば私が間違ってました。

あの時の米長先生の表情等今でもなつかしく思い出します。

米長先生ありがとうございました。

 以上将棋タイトル戦にまつわる思い出を報告させていただきました。

次は「掛布選手」と一緒にお酒を飲んだ想い出話です。

じゃ、又ね。

 

 

 

 

 

 

 ホテルではいろいろな性格のスタッフが居ります。

時にはユニークなスタッフもおり、職場に笑いを提供してくれます。

特に印象に残った二例を報告します。

二つとも私が札幌グランドホテル時代の実話です。

読んだ皆様は信じないかもしれませんが本当の話です。

 

①フロント男性スタッフ(多分30歳位だったっけ?)の場合 

 このスタッフの父上は日本有数の超名門ホテルの役員でした。

 

 ある日数人の女性が来館されフロントカウンターで、

「クリスタルキングが泊まっていませんか?」

と件(くだん)の男性スタッフに質問しました。

クリスタルキングは昭和50年代の前半の頃活躍した、有名な7人編成のロックグループです。

応対にあたった男性スタッフは、芸能界には全く関心がありませんでした。

ですからクリスタルキングと聞いてもピンとこなかったのでしょう。

女性グループの質問に対し、彼は大真面目で表情も変えず即答したのです。

「手前どもでは、クリキントンは扱っておりません」

と何のためらいもなく答えました。

その場にいたフロント女性スタッフ2名は、お客様の前で必死には笑いを堪え、

急いでフロントバックにさがり大爆笑したのです。

訪ねてきた女性グループの方々も余りの予想外の返答に困ったことと推察いたします。

この男性スタッフは何故フロント女性スタッフが爆笑したのかピンときませんでした。

この彼氏、翌年東京に転勤になりましたが頓珍漢な受け答としてしばらく話題になってました。

 

②ある日の昼頃、二階の宴会受付に堀北海道知事(当時)が私服でお見えになりました。

「井上俊ちゃんいる?」

と質問です。

(井上俊司氏は当時宴会セールスの係長でしたが実質課長のような存在感がありました。今から4年前ガンで天上の彼方へ旅だたれました。知事とはグランドホテルのサウナ室で知り合いました。)←「今はサウナ室ありません」

応対にあたった女性スタッフは、入社歴は2~3年位だったと思いますが政治には全く興味がありませんでした。

テレビもニュース番組はほとんど見たことがなく、堀知事の顔も全く知らなかったとのこと。

この女性、スタッフ堀知事に対し、

「失礼ですがどちら様ですか?」

と大真面目で堀知事に伺いました。

堀知事曰く、

「北海道に勤めている堀と申します」

受付の女性の頭の中は、

「北海道に勤めている???」

ちょうどそこに堀知事の顔を知っている宴会予約マンが戻り、

「知事いらっしゃいませ、井上ですね?」

堀知事も休みでラフな服装でしたが、さぞビックリしたことでしょう。

多分ご自分の事は皆さんご存じと思っていたのかも?

ところがこの受け答えです。

なんともはや・・・・・・・

 

先日元知事堀達也様ご逝去の報に接し、思いだしましたのでご報告させていただきました。

その後面白い話は聞きません。

この手の失敗談は昔はたくさんあったのですが・・・・・

その後京王プラザホテル札幌に移りましたが、面白いエピソードは私の耳には入ってきませんでした。

つまんない世の中になりましたね。

ユニークなスタッフは居なくなったのでしょうか?

ホテルに大卒の新入社員が入りだしてから、型破りのスタッフが減りだしたように思えてなりません。

(私の偏見かも・・・・・・)

ま、時の流れなんでしょうね。

私は昭和の時代にホテルマンで本当によかったと思います。

給料は安かったけど、楽しかったですよ。

入社してきた高卒の皆様は、平均して学力はトップグループではなかったようです。

勉強出来たグループは金融関係に行く生徒が多く、ホテルにくる卒業生は勉強には関心がなかった生徒さんが大半でした。

なかでも戦力になった高卒の方々は、クラブ活動でキャプテン経験者が多かったように思います。

体が自然に助っ人が必要なところに、応援に入ったりしてました。

 

 我が師匠井上俊ちゃんも最終学歴は歌志内の中学校です。

歌志内高校を自主退学(?)、空気銃で地元の悪を懲らしめたり相当やんちゃだったようです。

やがて札幌西高校の夜学に入ったのですが、務めて居た札幌グランドホテルの仕事がおもしろくなり

高校も自然に自主退学しました。

当時三井観光開発株式会社で売り出していた苫小牧ゴルフ場の会員権販売で、抜群の実績を挙げました。

メインダイニング原生林のウエイターだったのですが、ゴルフ会員券販売の実績で宴会販売部に移りました。

又大変な読書家でした。

ホテルの向かいに「なにわ書房」があり、昼休みにはよく立ち読みをしていました。

知事からも独立を進められ本人も相当迷ったようです。

「内容によっては道から応援資金を出す」と言われたと聞いたことがありました。

とにかく頼りになる上司でした。

今ではこのような上司は絶滅危惧種になりました。

私もあと少し(?)でそちらの世界に行くと思いますので、素敵な飲み屋さんを見つけておいてくださいね。

ではいずれ又。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 京王プラザホテル札幌で60歳の定年まで働くつもりでおりましたが、辞めざるを得ない事情が発生しました。

その後のホテルマン生活の実態を報告します。

 

 ご報告したように、2年間で200万円年収が減る通告を受けました。

理由は、定期採用者に比べて経験者採用者は給料が高すぎるという理由でした。

ちょうど娘と息子がそれぞれ大学と高校(共に私学)に進学することになり、授業料他でお金が忙しくなっていました。

そこでかねて誘われていたルネッサンスホテルにお世話になることを決めました。

ルネッサンスホテルは評判が悪く、あまり気乗りはしなかったのですが・・・・・

給料を考えると他に選択肢はありませんでした。

働いてみると評判が悪い原因がすぐに分かりました。

 社員の一般常識、社会常識、人間性が欠けていることにビックリしたのです。

加えて総支配人が銀行出身でホテルは素人、自分の事しか考えない人でした。

部長職の人達もゴマをすることしか考えていなかったようです。

結局社員同士や幹部社員と一般社員の関係はバラバラ、修復不可能状態でした。

 

 毎朝9時から部長職以上が集まる連絡会が、総支配人も出席して行われていました。

ですが8時半には私を除く全部長(確か部長職の人数は計6名だったっけ?忘れました)が

入れ替わり立ち代わり総支配人室に(ゴマ擦りに)行っていたのです。

私だけが総支配人にゴマを擦ってなかったのがしばらくして分かりました。

 

「昨日のゴルフ、天気がよくてよかったですね」

「スコアはいくつでした?」

「あのゴルフ場のレストランは○○が美味しかったのですが、召し上がりました?」等々

てな具合にお世辞の嵐だったようです。

 

部長職で朝総支配人室に行かない私を心配してくれる人もいましたが、気にしませんでした。

その結果入社1年経った時、人事案(課長職2名の配置転換案)を持って総支配人に説明に行きましたが、見事に無視されました。

却下の理由ははっきりとは分かりませんでしたが、ゴマ擦りにいかなかった私を快く思わなかったようです。

それと私の異動提案2名の課長職が、しっかりと総支配人にゴマを擦っていたようです。

それからしばらくしてルネッサンスホテル(現プレミアホテルーTSUBAKIー札幌)を辞めました。

でも冷静に考えると、私の人間としての狭量さと、人として度量がなさすぎたのにも責任があると考えます。

結局私には、人をまとめるだけの力が欠けていたのでしょうね。

 

 

 ルネッサンスホテルを辞めてしばらく就職浪人の予定でしたが、一月も経たないうちにホテルノースシテイのT総支配人から

電話をいただきました。

 T総支配人からお電話を頂く半年位前に、人を介してお目にかかっていたことがありました。

永年の習慣で初めてお会いした方には全てサンキューレターを出していました。

サンキューレターとは初めてお会いした方全員に、

「この度はご挨拶させていただき誠にありがとうございました。」

と葉書にて簡単な礼状を出していたのです。

ノースシテイのT総支配人は、私からのサンキューレターを受け取り、

「こういったことをノースシテイの内部、特に営業マンに広めて欲しい」と考えていたのです。

それでルネッサンスホテルを辞めていた私に連絡をいただきました。

最初は1ヶ月20万円の臨時職員で雇われましたが、あまりにも収入が少ないと考えてくださったようです。

それで売上歩合制を導入していただき、結果月収40万円近くまで稼げるようになりました。

T総支配人は人間性にも優れ、考え方も常識があり素晴らしい人でしたが、早期退職の道を選ばれました。

彼が辞めてしばらくしてノースシテイの総務担当から、

「何で臨時職員に500万円近くも給料を払うのか?」

と職員から猛烈な抗議があったのです(内部の人間から聞きました)。

結果収入も200万円を超える減収になり居心地も悪くなりました。

私からみてもそんなに仕事が出来ると思わない女性職員が、年収450万円と聞き、ビックリしました。

 

 やがてホテルを再建するのに、確か東京のグリーンハウス(?)とか言った会社にまかせたらしいのです。

そしてグリーンハウスハウスから送り込まれた人間を見て私はビックリしました。

ルネッサンスホテルで、私が課長職のレベルの仕事が出来ないと判断したスタッフだったのです!

それからしばらくして60歳を過ぎていた私は不要とされ、ノースシテイを辞めました。

 

 ところでグリーンハウスの人事担当者も、採用したメンバーの調査をしたのかしら。

多分札幌のホテルにいたというだけで採用したのでしょうね。

グリーンハウスは採用する人間の信用調査をまったくしなかったようです。

札幌のホテル業界も甘く見られたもんですね。

ノースシテイの責任者も、私の履歴書をみて、どんな人物か聞いてくれたら違った展開になっていたのかも。

ま、済んだことです。

 

 それからは小さなエージェントを始めましたが、コロナ以降目立って宴会が減り私も70歳を超えていたこともあり

年金生活に入りましたが、本当に年金って少ないですね。

せめて最低でもなんとか生活出来る位のお金くれないのかな。

いまでは連れ合いの稼ぎが頼みの綱、それがないと伊東くんちの家計はパンク状態です。

幸い子供達は親からの仕送りは不要、何とか生活しています。

 

 今はパリの長女、台湾の長男に会いに行くのが楽しみですが、パリは遠すぎ、飛行機に15時間も無理。

昨年11月、16日間パリに行きましたが、もう2度と行くことはないと思います。

旅費その他伊東家の小銭迄すべて使い切りましたし、毎日パリ市内を歩きました。

コンコルド広場、凱旋門、マリーアントワネットがギロチン台に上る直前まで過ごした部屋等パリ市内を堪能しました。

ユネスコの社員食堂兼お客様の食堂から(7階)エッフェル塔を見ながら食事をしましたし、ルーブル美術館、オルセー美術館も

観ました。もう充分です。

一方台湾は飛行機で5時間弱、トイレも問題無し、2度行きましたが何度でも行きたいと思います。

あとは習近平が攻めてこないのを祈ってます。

 

 78歳の現在、いちにち3時間のアルバイトが見つかり何とか生きております。

70歳過ぎてから、何社か就職試験を受けましたが悉く年齢でダメでした。

特に野幌の北海道開拓記念館は、面接段階では好感触でしたが、警備会社本社から70歳過ぎると健康面でいつどうなるか分からないので採用不可になりました。

国道12号線から啓成高校を経て記念館に至るまでの道路のゴミ拾いも業務に含まれておりました。

私の散歩コースでいつも道路に捨てられているジュースの空き瓶やペットボトルが気になっておりましたが・・・・・

 

 私の飲み友達も相当数天国酒場に河岸を変えました。

天国酒場には親しかった仲間がたくさんいますので、連れ合いからは、いつ行ってもいいよ、と勧められて(?)います。

でも、私の事を忘れていたりして。

「あんた、誰?」

とは言わないと思うんだけどな。

 

ま、冗談はともかく残り少ないこの世の生活を楽しむとしますか。

いつものように、まとまりのない駄文になってしまいました。

スマンこってす。

じゃ、又ね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昭和56年7月、当時札幌で最大の宴会場を持つのが確実の京王プラザホテル札幌に「転社」しました。

仕事内容は宴会セールスで前職と変わっておらず「転職」にはあたらないと思い「転社」が妥当と判断しました。

 札幌グランドホテルから27名が京王に移籍、グランドホテルの経営陣も若干焦ったようです。

というのも我々27名が京王に移ったあと、グランドホテル社員の給料が大幅に上がった由。

「グランドホテルの経営陣もやればできるんだ」と思いましたが、大量の人材流出がなければ、給料上げなかったの?

それはないよね、経営陣はズルい、大人はやっぱりズルいと改めて思いました。

 さてグランドホテル経営陣への悪口はともかく、以下京王時代の想い出を記します。

 

①グランドホテルでの楽しい想い出を忘れていました、まずそれから報告します。

 歌手・作曲家の平尾昌晃音楽事務所(正式な名称は忘れました)の秋の観楓会の道案内をしました。

グランドホテル⇒日高ユートピア牧場(昼食、今は営業していないと思います)⇒苫小牧ホテルニュー王子(旧館で宿泊)

⇒翌日千歳飛行場で解散 のルートで行われました。

 総勢50名前後、大型バスで移動、一家族3人平均として150~180人が生活していたことになります。

 平尾昌晃さんはじめ俳優の川地民雄さん(名前の字間違えてたらゴメン)葉山良治さんなど有名俳優が沢山いました。

 特に苫小牧ニュー王子で夕食のあと地元の大きなスナックでの平尾昌晃ショー、みんなノリノリでたのしかったなぁ。

 「星はなんでも知っている」「ダイアナ」等々平尾さんのオンステージ、タダで見ました!

 

②平成天皇陛下御夫妻をお迎えしました。

 その年3月道庁担当営業マンから、7月に天皇陛下を京王プラザホテルで受け入れてほしい旨強い要望がありました。

当時の京王プラザの総支配人が学習院OBだったこともあり、京王でお迎えすることになりました。

理由として札幌グランドホテルの貴賓室(洋室)ルームナンバー464は4階、目の前が北海道ビルで道路1本しか離れてなく、見晴らしがよくないのです。

京王プラザホテル札幌のスイートルームは22階南向きで、目の前に札幌市内、少し遠くにススキノの夜景が広がり気分爽快になります。

多分それが原因かも?

京王のスイートルームの窓は防弾ガラスではなく、当時のライフル銃の有効射程距離のビルの屋上にすべて警察官が配置されたらしいことも後で伺いました。

 

 それはともかくとして、野幌森林公園で育樹祭が行われることになり、それに陛下御夫妻がご臨席することになり、来道されたのです。

ビックリしたのが、先乗り荷物が美智子妃殿下が20個、天皇陛下が5個でした。

美智子妃殿下のお荷物20個は、ほとんどがお召し物、あらゆる天候の変化に対応できるように、との考えからご用意されたとのこと。

いかなる天候になっても対応できるように、お召し物を用意されたら大きなトランクが20個になった由。

トイレも宿泊されているホテルの自室以外は使用されないとのこと。

普段から水分は控えられている由、皇室は大変ですね。

慣れているとはいえ、お察しします。

 

 天皇陛下御夫妻来館の詳報は、私の講演のなかで20分程度にまとめておりますが、正直に申し上げて気苦労が多く

一度お迎え出来ればもう充分というのが実感です。

でもとてもいい経験をさせていただきました。

 

③1件で1億9千万円の招待会を受注。

それまで札幌のホテル業界の宴会売上で、1件当たり6千万円前後が最高でした。

S化粧品会社の売り上げを大幅に超え、当時の札幌のホテルで断トツでした。

5月のGW直後に開催された、某精密機械の会社の優績者招待会です。

前年京都の都ホテルで行われた招待会を下見に行きましたが、ホテル料理を観た瞬間、札幌の勝ちと思いました。

ただデザートコーナーの京菓子コーナーだけは京都に軍配が挙がると思いました。

総合司会が徳光さん、入場シーンで京都の舞妓さんが15人ほど三味線の演奏とともに会場へ、これは素晴らしかったです。

ちなみに京王プラザホテル札幌でのオープニングセレモニーは、アイヌの儀式をテーマに考えられており、

いかにも北海道らしく素敵な映像が拡がりました。

ホテルの料理はウエルカムパーテイが一人16000円、昼食が一人12000円、夜の食事は一人15000円で

それぞれ950人分の用意が必要でした。

京都都ホテルがウエルカムパーテイ一人15000円、私はどうしてもそれより高くとりたっかたので最初フード単価18000円で提案したのです。

案の定、なんで都ホテルより3000円も札幌のホテルが高いのか、と先方社内で問題になった由。

折り込み済の反応だったので、北海道らしい美味しい料理を召し上がっていただきたいと強調、なんとか16000円でOKの返事をいただくことが出来たのです。

おかげさまでその年は調理長から、料理の原価率がなんの心配もないとお褒めの言葉をいただきました。

 

④キリンビールの恵庭工場落成祝賀会も楽しかった想い出です。

 大阪から600人収容の巨大なテントを持込、前日スタンバイ完了で会場準備は出来上がりました。

当日はホテル調理スタッフやコンパニオン60名(確か)を大型バスで札幌から早朝移動、調理さん達も楽しそうでしたよ。

これだけ大型の出張宴会の経験は初めてで、当時の調理長から、

「伊東、オレここの調理長になりたい。推薦してくれ。」と冗談口調(でも本音かも?)でお願いされました。

勿論オープンパーテイは好評のうちに終了、お客様からもお褒めのお言葉を頂戴しました。

楽しい仕事でした。

 

⑤道銀頭取交代パーテイをグランド、パークと京王の3社三つ巴のすえ獲得。

 7月始めが頭取交代披露祝賀会に決まり、3社とも決定宴会を受注済、グランド、パークは決定宴会の日程変更に失敗、

京王も難儀しましたが、宴会キーマンの先方責任者の説得に、神奈川県まで出向き説得に成功しました。

最初祝賀会を2回(道銀の主要取引会社対象約600人「確かライラック会?」と役所関係約200人の2回)に分ける計画でした。

私の読みで1回にする予想が的中、800名で一人10000円の予算と伺っていましたが、最初の見積もりで料理単価12000円で提出、結果合計2500千万円で決着しました。

大変申し訳ないのですが、道銀の担当者はほとんどホテル側(即ち伊東)のおすすめに従ってくれました。

昼のパーテイでの売上としては、上出来と総支配人からもお褒めの言葉をいただきました。

会場入り口で札響のピックアップメンバーによるお迎えのミニ演奏等、素敵でしたよ、一所懸命に考えてよかったな。

 

⑥母校札幌東高の同窓会総会でタダ一度だけ700人を超えました。

 それ迄500~600人で推移していましたが唯一700人を超える歴代最高の出席者数を確保しました。

グランドホテル営業マン時代は、一番広い金枝の間が着席450人が最高でしたので営業にはいきませんでした。

あの熱気はいまでも覚えています。楽しかったなぁ。

確かOBの一人がブラジル在住でしたが、当日来札、出席いただきました。

現在の同窓会総会は250人前後に人数が減り、寂しい限りです。

想い出に残った宴会はこんなところかな、また思いだしたら報告します。

 

 一般宴会獲得では古巣グランドホテルに勝つことが多くなり、恩返しになりました。

グランドホテル宴会販売部の上司の指示不足と判断のバラつきが目立ちました。

私のグランドホテルでの師匠が東京本社に転勤、後任宴会販売部の司令塔のレベルが落ちたのが原因と思われました。

 

 余談ですがグランドホテルから京王に移った人材の中で、グランドホテルに再度スカウトする動きがあったそうな。

その最有力者に私の名前が出たとの事、(このことは当時のグランドホテル総支配人Fさんから直接聞きました)光栄なこととうれしくなりましたが、もしお声かけいただいたとしても、再度のグランドホテル勤務は難しかったと思います。

お金よりも大きな宴会場を売りたかったので、再度の札幌グランドホテル勤務はお断りしていたのはほぼ確実でした。

 

⑦京王プラザホテル札幌の法要プロジェクトリーダー

 地下1階のバー改装で60人規模の宴会場オープンに伴い、当時1年間で2000万円だった法要の売り上げを

目標の1億円には届かなかったが9000万円にのばすことが出来ました。

過去の実績を分析東区、北区、厚別地区とその近辺へのDMを辞め費用を削減、新たに北広島地区の駅中心にDM配布を実施

1年後には大幅に売り上げを伸ばすことが出来ました。

法要専門の営業マンを1名作り、土日出勤にし出来るだけDMが届いた頃訪問するようにしたことも成績アップに寄与しました。

 

⑧元横綱輪島(引退してプロレスにいくかもと噂が乱れ飛んでいた頃)とお酒を飲みました。

 ・ライバルの北の湖さんはお酒が強く、サントリーオールド1本が30分で空いたこと。

 ・輪島さんは手首が平骨で私と比較しても1・5倍位ありました。

 ・左下手まわしを取れさえすれば絶対勝つ自信があったと教えていただきました。

 ライバル北の湖さんは体重160キロ前後、左下手まわしさえ取れれば北の湖さんの体が浮いたそうです。

 

⑨私が宴会販売部の支配人(課長職)になった時、市内2~3ホテルから電話をもらいました。

 「伊東さん、本当にテリトリーセールスから卒業したの?」

余程私が目障りだったんでしょうね、心から喜ばれました。

私が腕利き営業マン(?)であったことは事実ですが、私より優れた営業マンはたくさんいました。

ただ人より優れていた点は営業マンとしての基礎業務は、多分人より一所懸命にやったことだけは自信あります。

1,初めてお会いしたお客様には100%サンキューレターを出していました。

2,お詫びを逃げたことは一度もありませんでした、必ず直接お会いして目をみてお客様のお話をお聞きしていました。

3,担当会社一覧表を区ごとに作成、訪問件数だけは多分トップクラスだったと思います。 

 前の週の金曜に翌週の訪問予定を作成、効率の良い営業活動をしていたと思います。

4,担当の法人会合、結婚祝賀会には余程のことがない限り当日立ち合い、ご挨拶をかかさず次回の利用に結びつけました。

5、財界さっぽろ等地元経済誌を読み、お客様の横のつながり(どこの高校OBか?)を知るようにしていました。等々

 

⑩猜疑心の強い上司にパワハラを受けました

 宴会販売の支配人になると館外接待費を会社から賦与されます、確か1ヶ月10万円だったように記憶しています。

私は3グループに毎月2万円をグループ内の一杯飲み屋代として渡しました。

それに加え、3グループのリーダーと月1回、飲み会を実施しました。

私自身もお客様との交際がたくさんあり、その費用に月4~5万円ほど必要でした。

勿論足りないので自腹をきってました。

ところが上司(部長職)が自分の使うのに忙しく、なかなか伝票にハンコをもらえず、気苦労が絶えなかった思い出がありました。

とにかく疑うのです。お客様ではなく仲間内で使ったのでは等々、狭量な人でした。残念!!

 

⑪他ホテル営業マンとたくさん知り合いました。

 特にビジネスホテル勤務の多くの仲間には宿泊で随分お世話になりました。

 お客様の多くは、札幌で泊まりたいが京王は予算超過、ビジネスホテルでどこか紹介してほしいといったリクエストには

 ホテル仲間が随分協力してくれました。

 感謝多々!

 

⑫シビルウエディングミニスターの資格を取らせていただきました。

 デザイナーの桂由美先生が日本に紹介した、新時代にあった結婚式の形態です。

 シビルウエディングミニスターについてはご自分で勉強してくださいね。

 私が資格を取らせていただいた時、日本全国で多分50~60人が有資格者だったと思います。

 東京まで資格を取りに行きましたが、試験には桂先生も審査員でおられ、相当緊張したことを懐かしく思い出します。

 

 33歳で京王プラザホテル札幌に移り、連れ合いにも巡り合うことが出来ました。

 子供達も何とか大学の入学金まで支払うことが出来、感謝いたしております。

 しかし大学卒業の頃、伊東くんちの財政はパンク、金融機関からお金を調達、何とかしました。

 二人の子供達もパリと台北で元気に暮らしており、数年に一度子供達に会いにいく楽しみも出来ました。

  

 余談ですが、55歳の時、会社から給料を下げる事実を聞き、スカウトを断っていたルネッサンスホテル(当時)に転社しました。

 噂に聞いていた通り社員間がバラバラ、各ホテルの問題児の集まりで総支配人も銀行出身、ホテルのことは何も知らない人でした。

 

 色々なことがありましたが、おおむね京王プラザホテル札幌時代は仕事とプライベート両方で楽しく過ごせました。

 

 今現在宴会販売部は私の過ごした昭和の時代の雰囲気が無くなったようです。残念!!

私の時代はグランド、パーク、後楽園ホテルに腕利き営業マンがおり、彼らと一つの宴会を取り合うのが楽しみでした。

最近はホテル同士の宴会獲得の鍔迫り合いの噂も聞かなくなりました。

時代が変わったと思います、これも時の流れでしょうか?

勿論ホテルの「格」もありますが、どこのホテルの誰が担当かによってこちらの気持ちも違ってきます。

現在のホテル業界の実情は知りませんが、強力なライバルがいたほうが、やりがいがあると思うだけどな。

みんな、そう思わない!

 

やはり昭和の時代が今でも懐かしく思い出されます。

いい時代にホテル営業マンとして働くことが出来たと「時代」に感謝する今日この頃です。

後期高齢者のたわごととお笑いくださいまし。

ただ残念なことがありました。

それは札幌勤務になった京王電鉄と京王プラザホテル新宿からの出向組は「札幌へ島流し」と自虐的な発言が目立ちました。

やがて年期奉公があけて、東京へ戻ることになった時のうれしそうな顔といったらなかったね。

自分にも責任があると思いますが、出向組と打ち解けた人はいなかったのです。

出向組のほとんどは会社のお金で夜の飲み食いをし、5年経って800万円貯められなかったらアホなんだと!

残念ながら人間として、好きになれなかったね。

ま、向こうもこちら現地採用組には親しい感情はなかったようだし・・・・・・

以上で京王プラザホテル札幌時代の想い出を終了します。

 

じゃ又ね。