原爆きのこ雲の下を飛んだ日本軍戦闘機 | junとさらくのブログ

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 今、オリンピックで十代の選手たちがメダリストになったというニュースが次々に流れている。小さい頃から競技に夢中になり、自分から積極的に練習し経験を積んで育った選手たち、そうした集中できる環境に恵まれるかどうかも成長のカギだ。

 

 予選段階で勝てずにオリンピック会場を後にする選手たちの数の方が実は圧倒的に多いのだが、ニュースが彼らを取り上げることはとても少ない。上位に入って来るのは日本や西欧諸国、先進国の選手たちが圧倒的に多く、テレビやネットにはそういう人たちの笑顔が連日並ぶ。

 

 予選落ちして早々に帰国する選手たちは、またスポンサー探し、練習場所探しなどからやり直さなければならない。先進国ほどその面では恵まれているが、発展途上国では厳しい。少年、青年にとって世界はまだまだ不公平に覆われている。

 

 先の大戦前の日本でも子供の頃から飛行機に憧れ、自由に空を飛ぶことを実現しようとした少年たちがいた。その一人がこの写真の人だ。

 佐々木原正夫、大正12年ごろの生まれで昭和の初めに少年時代をむかえたこの人たちの世代にとっては、海軍や陸軍の航空兵を目指すことがそうした夢を実現する一番の近道だった。

 

 この人は甲種飛行予科練4期というから、今の中学高校くらいにあたる当時の中学校高学年で、あるいは卒業してから海軍の試験を受けて合格し、航空兵になった人だ。

 

 この頃の練習機はまだ翼が上下に2枚あった複葉機だった

 

その後、空母艦上機の戦闘機部隊に配属され

真珠湾攻撃、珊瑚海海戦、ガダルカナル島周辺での戦闘に参加、

日本軍がガ島から撤退した昭和18年2月の戦闘で

重傷を負った

 

頻繁な高度変化やGにより

体に大きな負荷がかかる空戦は無理となったのだろう

その後は戦闘機の空輸、テスト飛行要員となっていた

 

この人のように重傷を負ったものの

内地送還されて治療を受け回復

その後は空輸や飛行兵教員となり

敗戦まで生きのびた人たちの話しはけっこうある

 

 

昭和20年7月下旬

当時新鋭の戦闘機として登場した紫電改の操縦席に座る

佐々木原氏

現在の長崎県大村市にあった第三四三海軍航空隊に配属された

 

約一千馬力のエンジンだったゼロ戦にくらべ

二千馬力となり速度など性能が上がった

すでにB29など米軍爆撃機に全国を猛爆撃され

それに対抗する戦闘機として期待された

 

 

前列左が司令だった源田実

後列右から2人目の佐々木原は

この当時下士官の最上位飛行兵曹長まで昇進し

准士官だった

 

空軍力では米軍に大きな差をつけられていた海軍航空隊

この時期には積極的な戦闘を避け

本土決戦と称する米軍上陸後の

国民の犠牲を無視した戦闘準備中だった

 

米軍艦上機数百機による海軍本拠地呉爆撃の時も

約20機の戦闘機しか出撃させられず

爆撃後帰途につく米軍機を急襲してはみたものの

逆に虎の子の紫電改6機と搭乗者6人を失った

 

ここまで掲載した写真は「太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人々は何を語ったか」 (神立尚樹著 講談社2023年7月発行)より

 

 昭和20年8月9日、大村の基地では燃料不足もあってか飛行訓練はなく、約百人の搭乗員たちは近くの山に出かけていた。

山頂へ上がっていく途中でものすごい音がして南西にある長崎市の方向に真っ白な大きな球が上がるのが見えた。真っ赤な炎も走り、球はさらに大きくなりながらゆっくり上がっていく。

 

 広島に落ちた「新型爆弾」じゃないか、それだ!などと皆が言っていた。長崎までは直線距離で20キロあるから、それほどの切迫感はなく弁当を食べたが、皆無口になった。来た時同様、トラックに乗って基地に帰ったのは午後2時ごろ。

 

 「私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した」 C.W.スウィ―二―

(B29 機長 ) 原書房2000年発行 より

 

 整備員に修理の終わった紫電改のテスト飛行を頼まれたというから、基地にも新型爆弾の攻撃で即何かをしなくてはという切迫感はなかったらしい。というより、手も足も出ない状態だったというべきか。

 

 離陸して高度を上げ、急上昇や急降下、宙返りなどするとエンジンの調子はよく問題なかった、それで基地にもどってもよかったのだが長崎のことが気になったので行ってみることにした。きのこ雲に接近すると色は黒く変わっていた。長崎の街がどうなったか見てみようとその下に入ってみることにした。放射線被ばくについてはまったく知らなかった。

 

 高度500mで雲の下に入ると雨が降っていた、残骸が見えてそれが浦上天主堂ということはかろうじてわかったが、一面の廃墟となり人の気配はなかった、たった一発の爆弾でここまで破壊されるとは戦闘経験の長い佐々木原にとっても驚愕の惨状だったという。

 

前掲写真と同じ本より

人間を含む地上の生物、人工物を高温で瞬間的に焼いた結果

このような異様で巨大な雲が短時間で発生

 

 その夜、大村海軍病院に大勢の重傷者たちが運び込まれ基地から応援に行った。佐々木原は任務の関係上行かなかったが、仲間の話しではケガ人の腕を引っ張ると皮膚がズルズル剥けてかわいそうだったと。

 

 ここまでの描写は、「太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人々は何を語ったか」 (神立尚樹著 講談社2023年7月発行) を参考にして書いたもので、一部の文章を理解されやすいよう変えた。

 

 ネット上で「現代ビジネス」の広告の中にこの本が紹介されるまで知らなかったが、神立氏はゼロ戦搭乗員を中心とした元海軍軍人約500人にインタビューして何冊かの本にまとめて紹介している。

その中に長崎の原爆きのこ雲の直下を飛行した人の話しがあるのを知ったのだった。

 

 海軍軍人だった人々の話しと聞くと、以前は戦争の時の自慢話だろうと敬遠していた。それがこのブログで「海軍、支那事変記念写真帳」を紹介することになり、海軍飛行兵だった人々の回想本を読むようになって印象が変わった。

 

 どちらかと言えば士官だった人たちの書いた本より、下士官だった人たちが書いた本の方が興味深いのに気がついた。それは下士官の方が、国家や海軍といった権威から離れた視点で戦闘や戦争を眺められていたからだと思う。

 

 佐々木原氏については、きのこ雲に関することだけではなく玉音放送に始まった大村航空隊の混乱の様子も書かれている。海軍兵学校卒の源田実など佐官クラスの将校たちが、とんだ猿芝居を大真面目に演じようとしたが、下士官たちから総スカンを食わせられたという話しも紹介されている。長くなるのでここではこれ以上触れないが、ぜひ皆さんにも読んでいただきたい。

 

 下士官たちの方が、海兵出の士官よりまともな精神構造を持っていたと私には思える。しかし、それが戦争中はあくまでも面従腹背で終わり、なぜ反乱には至らなかったのか。幼いころから天皇家を頂点とした国家主義、軍国主義教育を繰り返されていたことは大きな要因だろう。

 

 佐々木原氏は戦後自衛隊から誘われたが妻から反対され、一般企業社員として生き、2005年没。

 

 オリンピックでは勝てばメダルと栄誉が得られるが、戦争ではどうだろうか。戦闘機乗りとして空中戦で勝ったり爆弾を落として(今はミサイルやロケットで)、船や地上を機銃掃射をして「敵」を殺せば、昇進したり勲章はもらえる。それを当然のことと思える人もいるが、後悔の念を持つ人もいた。

 

 先の大戦で少年のころから空に憧れ、晴れて飛行機に乗れるようになったがその行先は戦場で、殺し合いの真っただ中だったという事実。生き残って、戦後は旅客機や自衛隊のパイロットになった人もいるがそれは少数で、多くはどこかもわからない海や山に落とされて埋葬もされないままになっている。そうして忘れられていく。これが戦争だ。

 

 長崎では広島とは違って「被爆体験者」の厚労省による被爆者としての認定がいまだに行われておらず、公平ではないという不満があり厚労省に対する運動も行われている。これは岸田首相が広島を選挙の地盤とする政治家であることに起因しているのはすぐにわかることだ。

 

 今月9日に来崎した首相と被爆体験者が会う機会がつくられて、「被爆体験者」代表が直接要望したというが、わずか5分間だったという。何も言わないわけにはいかなくなった首相は、隣に座っていた武見厚労相に「検討してください」という意味のことを言った。これが「前進」につながるのか?

 

 広島の黒い雨は認めても長崎では降らなかったと認めない厚労省。紫電改パイロットが被爆直後の浦上上空500mを飛行し、雨が降っていたと語ったことがはっきり書かれている本を紹介しようと思ったのは、このためだった。著者はインタビューの際には録音していたと別の本の中で書いていて、あるいは雨粒の色、機体についた汚れなどについて語ったかもしれない。