海軍、支那事変記念写真帖 ⑨ 飛行艇はどこへ? | junとさらくのブログ

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 大自然と膨大な時間が創り上げた南太平洋の島々と海

 

 そこを戦場にした大日本帝国とアメリカ合衆国を始めとした連合軍との戦い

 歩兵どうしの殺し合いから巨大な大砲を搭載した軍艦どうしの砲撃戦、そして飛行機による銃爆撃など、当時の最新の武器を駆使して相手を傷つけ殺すために行われた。

 

 ガダルカナル島沖にあるこのサボ島周辺では双方の多数の艦船が沈められたため、鉄底海峡と呼ばれた

 

 大日本帝国海軍の一員として大型飛行艇に搭乗していた9人の青年たちも、その戦闘に参加していた。

 

 立ち姿で写った4人、右から2人目の搭乗員は日本刀を持っていることから士官であり、機長であったと思われる。機長は必ずしも操縦士とは限らず、偵察員である場合もあった。航続距離の長い飛行艇では十時間以上の飛行も珍しいことではなく、航法士も兼ねた偵察員は重要な任務だった。

 

 航法士は六分儀を使った天測と計算で自機の位置を算出し飛行プランを立てる任務があり、また敵情観察もしなければならず理知的で冷静な人でないと務まらなかった。

 

 この写真から受ける印象では、右端の人が兵隊からたたき上げの准士官か曹長クラスの主操縦員あるいは主偵察員、右から3人目が下士官の副操縦員、左端が下士官の副偵察員ではないだろうか。

 

 飛行艇で実際に操縦する時間が長いのは副操縦員で、若手で新進気鋭の下士官が指名された。主操縦員は偵察員や無線通信から入って来る情報と自分の経験を照らし合わせて、飛行のコースや高度を指示するのが主な役割になっていたようだ。

 

 

 手前に座った5人はその表情から若い人たちであることがわかる。

いずれも20台ではないだろうか。

 搭乗員には航空機関士の役割をする整備下士官や、電信員、機関銃手がいた。飛行艇では機関銃手も操縦士教育課程を終えた下士官を乗せていたという証言がある(雑誌丸・昭和33年6月号附録「最後の救出飛行艇」偵察員・元海軍上飛曹本多四郎氏による記述)。

 

 

 とすれば、長崎出身の飛行下士官Tさんは機関銃手として搭乗していた可能性が高いと思われる。

 

 

 九七大艇には20mm機銃座が一つ、7.7mm機銃座が四か所にあったと資料には書かれているが、その場所については今のところ正確にはわからない。ただ、こうした大型飛行機では後方から追尾されながら機関銃攻撃されるのが最も危険だったため、機体最後部に20mm機銃座があったと思われる。

 

 他の銃座は機体左右と機首、それに機体上部に合計四座という配置だったと思われる。9人という搭乗者数から機銃手としては後部担当の一人だけで、他の銃座には敵機に襲撃された時に電信員や搭乗整備員らがついたのだろう。

 

 したがって、Tさんの搭乗配置は最後部20mm機銃座だったとして間違いないだろう。機体前部の機長たちがいる操縦席とは、エンジン音で声が届かないためブザーでやりとりしたようだ。たとえば後部機銃座からのブザー短音4回は後方に敵機発見を意味し、操縦席からブザー短音1回を送ると射撃開始の命令となった。

 

 

 米軍のB29爆撃機が登場するまでは、世界でも最大級の飛行機だった。しかし、エンジンのパワーが低かったため最高速度は384キロだった。この速度では、すでに500キロを超えていたアメリカ軍戦闘機の攻撃から逃れることは至難の業だった。アメリカ軍では多連装の13.7mm機銃や30mm機関砲も搭載され、7.7mmは豆鉄砲と揶揄されるほどだった。

 

 運良く逃げ込める雲があったり、海面スレスレに降りて追撃を逃れた場合を除いて、出撃した多くが撃墜されていった。

 

 

 

 

 遠くに見えるコロンバンガラ島、日本軍のガダルカナル島敗北後の拠点となったが、それほど長くは持たず、やはり撤退を余儀なくされた。ガダルカナル島とブーゲンビル島の間、つまりガ島の北西にあるこの海域では、反撃しようと南下して来た日本軍と北上するアメリカ軍との間で激しい海戦が行われた。

 

 アメリカ海軍の魚雷艇が作戦に加わり、日本の輸送船や駆逐艦が夜間にも攻撃された。後に大統領となった当時26歳のケネディが艇長をしていた魚雷艇が、1943年8月に駆逐艦・天霧に衝突されて沈んだのがこのあたりだ。ケネディがこの小島に他の生存者たちと泳ぎ着き生還したところから、今でもケネディ島と呼ばれている。

 

 この方面での日本軍の基地はラバウルで、陸海軍合わせて十万人近い将兵のほか、海軍艦艇の基地となる港湾と複数の航空基地があった。しかし、ガダルカナルまで1000キロ近い距離があり、片道だけでも3,4時間かかった。ガ島奪還には少しでも近いところに基地が必要となり、コロンバンガラの南のニュージョージア島にこのムンダ飛行場が大急ぎでつくられた。

 

 すでにガ島に航空基地をつくり短時間で飛来できたアメリカ軍にとっては格好の攻撃目標となった。連日の銃爆撃と艦砲射撃、さらに歩兵に上陸され、1943年8月には奪われてしまった。

 

 このあとこれらの島々と制海権、制空権はアメリカ軍を中心にした連合軍が握った。この時点でニューギニアでも日本軍は連合軍に敗北しており、ラバウル周辺とインドネシア周辺を除けば、陸海空すべてで日本軍が自由に動ける所はなくなっていた。

 

 

 ニュージョージアあたりで見えた小型機用滑走路。

ラバウルが主戦場からあまりに遠かったので、日本海軍はブーゲンビル島などで急遽ジャングルを切り開いて、こうした小型機用滑走路をつくらざるを得なくなった。

 

 しかし、海上での離水、着水しかできなかった飛行艇には関係なかった。

 

 5000キロ以上を飛び続けることが可能だった九七大艇、巡航速度の260キロで飛んだとして約19時間もの飛行が可能だった。このため、海軍高官が日本本土と数千キロの海を隔てた南方の基地の間を移動する時には、その足として使われた。

 

 滑走路が必要なかったから、リーフに囲まれて波静かな環礁で潜水艦と待ち合わせ、燃料補給してさらに遠方の敵基地を偵察できるという利点もあった。

 

 しかし、このインドネシア・スラバヤのスコールのように天候がいい時ばかりとは限らない。

 

 

 視界不良の中で、海から屹立する山に遭遇することもあっただろう。航空機にはレーダーがなかった当時は、偵察員が航空地図に自機の推測位置を記入しながら、回避する方法を考えて飛行していた。
 

 

 

 偵察のためには雲より下を飛ばなくてはならず、上空の雲の上に隠れていた敵機が突然全速力で降下して来て、激しい銃撃を受けることも常に考えていなければならなかった。

 

 敵機と遭遇すれば全速力で逃げなければならず、燃料消費は圧倒的に増えた。それが基地への帰還の途中であれば、逃げおおせたとしても燃料が持つかどうかという問題があった。

 

 

 

 昭和18年9月、九七大艇搭乗員Tさんの長崎県の家に、「未帰還」との通知が海軍省から届いた。出撃したものの帰っていない、との意味だった。(つづく)

 

掲載したカラー写真はすべて、2012年に航空会社の定期運航便搭乗中、自分で撮ったもの。九七大艇の写真は「奇蹟の飛行艇」より。

 

飛行艇搭乗員の写真は「支那事変記念写真帖 第一航空戦隊」に貼られていたものを接写。

これは南方の基地で出撃直前に撮られたと思われ、写っている各搭乗員はそれぞれの家族へ軍事郵便で送ったと思われる。写真の出来具合から、従軍していたプロのカメラマン撮影のものと推測される。

 

情報提供のお願い

 もし、このブログを御覧になった方のお宅に同じ搭乗員たちが写った写真があれば、Tさんと同じ飛行艇に搭乗していた人から送られたものである可能性が高いです。

 

 昭和18年当時の飛行艇部隊は801空、802空、851空の名称で、内地、台湾東港、インドネシアスラバヤ、パプアニューギニア東端に近いショートランドなどに基地がありました。しかし、その多くが未帰還となっています。

 その時期は九七から新型の二式飛行艇に機体の切り替えが進んでいましたが、二式の搭乗員だった方のお知り合いでも結構です。
コメント欄に書き込んでいただければ、こちらから返信させていただきます。情報は許可をいただかない限り、公開いたしません。

ぜひ連絡をお願いします。

 

お断り

当初、十日に一回程度の連載をするつもりだったが、多忙や体調不良などが重なり、連載間隔が伸びてしまった。今後は少なくとも一か月に一回の連載を予定。

 

参考 「奇蹟の飛行艇」北出大太著・光人社昭和43年刊

「二式大艇空戦記」長峯五郎著・光人社NF文庫

「大いなる愛機二式大艇 奇蹟の飛行日誌」日辻常雄著

「炎の翼 二式大艇に生きる」 木下悦郎著

「丸 昭和33年6月号附録 最後の救出飛行艇」本多四郎著

Wikipedia ソロモン諸島の戦い

   同    ニュージョージア島の戦い