Sumba ワインガプ第3高校訪問 | junとさらくのブログ

junとさらくのブログ

さらくSALAKUは船名です。

 

 

 校内で刀?

 

 ティアラを乗せた女子高生!

 

 スンバの中心地ワインガプの高台

 

 教会と向かい合ってワインガプ第3高校の正門 

 

 音楽に合わせて女子高生たちが歓迎の踊り

スンバに何回も来ているLIFEの日本女性が、「わたしこれ踊れる!」と言って踊り出しそうになった。

 

 この人もたぶん先生。となりの子供は、学園祭だからお父さんについて行きなさいと家で言われて来たのだろう。小学校の制服を着ているようだ。太鼓は何の皮、水牛?鹿?

 

 校長先生自らがお迎えしてくれた。

写真を見ていて初めて気が付いたが、後ろの女性が持っているのは伝統的な絣織、イカット。

 

 校舎に入る時に何気なく渡されたが、かなり丁重なプレゼントだったようだ。

 

 

  スンバの男性はイカットをこのように肩にかけたり、頭に巻いたりして使い、なくてはならないオシャレアイテムなのだ。

 

 ナイロンの4本弦、ウクレレのようだが一回り大きいか。

木部はありあわせの板を使ったような感じがしたが…

胸ポケットにはスマホ。

 

 学園祭の会場はこの屋根付き校庭で。

オランダと戦争して独立したインドネシアでは、青少年に国との一体感を持ってもらおうと、青年の日を制定している。この日がその日にあたり、各学校では学園祭が行われるとのことだった。

 

 イカットの手織りが職業訓練の一つとして教えられているようだった。訪問者である私たちに見てもらおうとのデモンストレーションだったのかもしれない。

 

 

 ペットボトルの中身は、日本ではプラゴミと呼ばれているもの。

この島でも処分に困っているのだろう、少しでも減らそうとしてこんな試みをしていた。

 

 

 

 なんとファッションショーが始まった!

 

 

 

 2017年にこの島に来た時、田舎の家に上がらせてもらったことがあり、これと同じ形の刀が床に無造作に転がっていた。スンバの家には必ずあるものらしい。

 

 

 

 人気のある男子が出て来るたびに、女子生徒たちから歓声が上がっていた。右の生徒はスマホを手に持って。

 

 女子はモデル歩きをこなしていたから、教える人がいるのでは。

スマホで見て覚えたのではという人もいたが、あれだけうまく歩けるようになるかな。

 

 

 この日ばかりは大人っぽい化粧で

 

 MC役の先生たち。言葉はわからないが、掛け合いのリズムがよくて会場を盛り上げていた。若い先生が多いこの学校では中堅クラスだ。

 

 審査員の先生たち。

 

 インドネシア語弁論大会1位になった生徒の発表。

ムルデカ(独立)、スカルノ(初代大統領)が出て来たのは予想どおりだった。

 

 話し方の強弱、リズムはなかなかのもので聞かせる力があり、政治家志望かと思わせた。

 

 こちらは日本語弁論で1位になった生徒。

「国際交流には寛容が大事」と内容もなかなかで発音もよく、高校生でこれだけ日本語が話せるとはと驚いた。原稿代わりにスマホを使っていた。

 

 日本語がわからない生徒向けに、となりの女性(日本語の先生?)がインドネシア語で通訳していた。こちらもスマホ利用。

 

 インドネシア ラヤ、国歌斉唱

 

 我国のとは違って、リズミカルで明るい国歌。

 

 かっては約350年間オランダの植民地とされ、その後日本が4年間足らずだが領土にしていた島々が、現在のインドネシアの領土とほぼ一致する。オランダが来るまでは、島ごとに、あるいは同じ島の中でも地域ごとにたくさんの小国があり、それぞれの言語を持っていた。

 

 その数は150とも200ともいわれ、今でもローカル言語として残っている。1949年に独立した際、これらの島々と地域を一つの国家とするため、スカルノ政権がマレー半島からこの島々にかけて交易のため使われていたムラユ語を、国の言葉に決めたのだった。国ができてから、まだ100年経っていない若い国なのだ。

 

 この高校に通う生徒たちも、家や地域ではローカル言語の中で育っている。しかし、小学校から教科書はインドネシア語となり、まずインドネシア語を学ぶことになる。高校にもインドネシア語の先生がいて授業が行われている。

 

 ローカル言語はインドネシア語とはまったく違うため、勉強は大変だと思うが小学生から学び始めるから上達は早いだろう。

 

 

 学園祭の合間に教室を覗いてみた。

 

 一段と高いところに掲げられたこれを確認したかったからだ。

ジョコ大統領に変わっていた。

 

 長く続いたスハルト大統領時代の写真は、当然元軍人のスハルトだった。開発独裁と言われ、日本はじめ先進国とは援助で結びついて多額の利権を得た一方、国内に反政府行動があれば警察や軍を出動させて徹底的に抑え込んだ。

 

 スハルト時代に旅すると、いたるところにスハルトの写真が掛けられていたものだ。ところが一度だけ、ジャワのスカブミという街の近くの家の居間にスカルノの写真が掛けられていたのを見た。後にも先にもスカルノはその家だけでしかお目にかかれなかった。
 
家主である初老の男性にスカルノが好きですかと聞いたら、"Sedikit"
「少し」と答えた。居間に掛けている写真だから、「少し」なわけはない。あのスハルトと軍部の独裁時代にもこういう人がいるのかと驚いた。めったに他人が来ない家に突然日本人に来られて問われ、とっさに出た"Sedikit"だったのだろう。
 
 スカルノを支持している、などと言ったら何もなしでは済まない時代だった。共産党支持者とみなされたらすぐ拉致され行方不明、そんな怖ろしい時代が1965年から続いていた。そんなスハルトももうこの世にはいない。
 
 この第3高校は、スンバではレベルの高い学校のようだった。
校長がスマトラ出身であるのにもかかわらず赴任して来たということは全国レベルの人事異動をしているわけで、日本の公立高校では考えられない。若い先生たちからは都会的な印象を受け、ジャワあたりから異動して来ているのではないか。以前はそれほどの高校ではなかったとも聞いたから、僻地教育のモデルとして政府のテコ入れがあるのではないだろうか。
 
 生徒たちはかなり裕福な家の子たちのように見えた。かなりの生徒たちがスマホを持っていたし、身なりもよかった。6年まえに行った田舎の極貧の家の子らとはまったく違った。水汲みや洗濯するため、タライやポリタンクを持てるだけ持って谷へ降りて行った女の子たちも年齢的には高校生くらいになったがどうしているのか。