軍艦のない艦隊 鹿屋市に残る第五航空艦隊の壕 | junとさらくのブログ

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 シラス台地の地下にそれはあった

 

 

 掘られてから80年近く経ったというのに、いまだ健在だ

 

 九州の南端に近い鹿児島県鹿屋市

 

 戦後、海上自衛隊の航空基地となったが、その前身は昭和11年にできた帝国海軍航空隊基地だ。

 昭和20年沖縄にアメリカ軍が上陸した前後には、爆弾を積んだ飛行機に乗員が乗ったまま敵艦に突っ込む特攻作戦の海軍の主要な基地となった。

 

 海軍特攻機に命令を出す司令部は鹿屋市に置かれた。

第五航空艦隊司令部だ。

 

 航空艦隊と言っても、空母も戦艦もすでにそのほとんどを米軍の航空機や潜水艦によって沈められ、残っていなかった。司令部の任務は飛行機による特攻作戦遂行だった。

 

 

 先月下旬、その司令部跡へ特別に入ることが許された。

それはこの道路の突き当りにある丘の下にあった。

 

 ずっと立ち入り禁止になっていたため草ぼうぼうだったのを、鹿屋平和学習ガイドや戦争遺跡調査員の皆さんが草刈りしておいてくれた。

 

 

 

 入口は人の背丈くらいの高さしかなく、狭かった。普段は鍵がかかっている。

 

 

 

 入口を少し入ったところからコンクリートで補強

 

 

 司令部だっただけに広い部分もある

ここは電話交換室があったところで、百人の女学校生徒たちが一日三交代で詰めていたという。

 

 天井には電気、電話、通信のケーブルを載せて頭上を通すための木製や鉄製の棒が残っていた

 

 

 通信設備が置かれていたという壕

 

 こちら側で受信した暗号電文を、この穴から向こう側の暗号室に渡して解読していた

 

 最初は2本のトンネルでそれぞれ受信と暗号解読をしていたが、受信した電文を暗号室へ持って行くのに時間がかかるため、この穴を掘って近道にしたのだろう。

 

 大急ぎで開けたらしく、上下左右は土がむき出しのままで崩落していた。ここまで工事を急いだ理由としてある特攻作戦が影響したのかもしれないと思い当たり、最後に触れることにする。

 

 

 

 

 

 天井に1か所何かが見えた

 

 鉄製パイプだった。

無線通信用アンテナにつながるケーブルを、ここから丘の上まで伸ばしていたらしい。

 

 

 

 

 壕の大きさは一様ではなく、広かったり狭かったりしていた。

中には土が崩落して入れないところも。

 

 ここも右側から土が崩落し、このまま放置すれば通れなくなってしまうだろう。

 

 以前は出入り口がいくつかあったそうだが、勝手に入られて事故になっては困るため、土でふさいだ所もあるとのこと。

 

 今回は戦争遺跡調査の一環として、ヘルメットをかぶり研究者も一緒に入ることを条件に、市から許可を得られた。

 

 この地中深くに掘った狭い空間に、宇垣纒司令長官はじめおそらく百人前後の軍人や徴用された男女学生たちが24時間詰めて、沖縄近海で行われていた特攻作戦の支援に携わっていた、異様な空気が漂う穴倉だったと思うが、現実にあったことなのだ。

 

 米軍の激しく容赦のない爆撃から逃れるためには、ここまでしなければならなかった。モグラのように地下深くまで潜るしかなかった。

 

 そうまでしても、海軍の暗号は先の大戦の初期から米軍に解読され始め、後期にはほとんど情報が筒抜けだった。軍人がおごり、まわりが迎合すればこういうことになる、その証左がここにあるのだが、今また軍人もマスコミも有事だ危機だとかまびすしく、民もそれになびく。もう一回やりますか、皆さん。

 

 前述した特攻作戦、それは通称梓隊と呼ばれた3人乗り爆撃機銀河24機によるウルシ―環礁特攻攻撃のことで、昭和20年3月11日に行われた。出撃した鹿児島からの距離は約2600キロ、GPSはない時代でありベテラン操縦員、天測で位置確認をする偵察員が搭乗する飛行艇の先導が行われた。この飛行艇の主操縦員だった長峯五郎氏が書いた「二式大艇空戦記」(2007年光人社刊)の228ページによれば、以前から決まっていた3月10日に特攻部隊全機が離水、離陸して編隊を組み飛行を始めてから、突然第五航空艦隊(五航艦)の宇垣司令長官の命令で一日延期となったというのである。

 

 この理由はトラックからウルシ―へ飛ばした偵察機の報告の内容をトラックの司令部が五航艦に暗号にして打電した際、肝心な特攻機が標的とする空母の停泊の有無から始めずに他の事柄を優先してしまった。長文の暗号で解読にも時間がかかり、空母のことが出てこないのは停泊していないからだと司令長官が判断して延期してしまった、それが延期の理由だったと、この元主操縦員は書いた。

 

 この件は戦後になって五航艦参謀長をしていた横井俊介元少将からの手紙で説明されたことだとも長峯氏は書いている。この手紙には、後から受信した報告の中には空母15隻の停泊が書かれていたというから皮肉なものである。

 

 これはトラック基地の不手際ということにはなるが、このドタバタが五航艦司令部をして受信機を置いていたトンネルと暗号解読斑のいたトンネルの間に急いで穴を掘らせた理由にもなったのではないか。

 

 梓特別攻撃隊について詳細を書く時間はないため、関心のある方は詳細を記した同名の本があるのでお読みください。その結果だけを長峯氏の本や他の本の記述に従って簡単に記せば、一日遅れ、しかもこれまた司令部からの命令で出発時刻が1時間遅れたことにより、日没後のウルシ―到着となった。

 

 結果的には銀河一機のみが空母に突入し、飛行甲板後部に穴を開けただけに終わった。3機の銀河が日本軍がいたヤップ島などに着陸したが、一機は事情を知らない陸軍に機銃で撃たれ2人死亡。長峯氏が乗った飛行艇は飢餓で知られたメレヨン島沖に着水し、数か月後潜水艦で帰還した。

 

 そして戦後の昭和51年、「死にゆく二十歳の真情」を書いた。それを光人社が「二式大艇空戦記」という勇ましい書名の文庫本として出版した。