宇久平港から西海市 | junとさらくのブログ

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さらくSALAKUは船名です。

  風は北寄り、風力3、午後から風強まる予報、7時出航。

3日ぶりにフルメイン、No.3でセイリング開始。

 

 あらためて宇久平の街を眺めると、右端の茶色のビルは元町役場で今は佐世保市の行政センターと称しているところ。中央の屋根のある大きなビルは体育館か。

 

 以前、知り合いの車で島を回ったが、高校の体育館がえらく立派で驚かされた。町長としては、土建業者の機嫌を取ることによってその社員たちを選挙の時の運動員として大勢派遣してもらえるというメリットがあるのだろう。

 

 この人口減の時代になっても川棚町の石木ダムを佐世保市長や県知事らがつくると言い続けているのは、そのあたりの事情が大きいのだろう。選挙になれば名前を連呼しながら、何台もの車をつらねて選挙カーを走らせていればいいのだ。

 

 

 宇久島の北東側にある古志伎島は、五島列島の北端の島になるのではないだろうか。

 

 宇久島の東、この日のわが航路のすぐ北に見えた黒母瀬。

 

 乗合の釣り船か。

 

 九州商船の佐世保へ向かうフェリー。

 

 まき網漁船。生月に基地がある。

 

 おそらく鮮魚運搬船。五島で獲れた魚を佐世保方面の魚市へ運ぶ。

 

 出航2時間後、平戸の南端が近づいた。

 

  尾上島

 

 元々は「拝み」、だったのではないだろうか?

 

 高島にある「4階建て」。地元の人たちはそう呼んだという。

先の大戦中に海軍が建てた建物で、五島灘海底にマイクを仕掛けここまでケーブルを引いて、潜水艦のエンジン音を聴き取ろうとしていた。佐世保軍港を守るための施設だった。

 

 関門海峡の北側にある蓋井島にも、同様な施設をつくっていたことがわかっている。

 

 宇久島から約130度の針路で航海する時、ほぼ正面にこの帆上げ瀬が見えるため、いい目標になった。

 

 途中、風が落ちて機帆走で走った。

 

 天気のいい日には五島灘のどこからでも見える志々伎(しじき)山、

347m。

この角度からは急峻に見えるが、登山道は斜面をうまく巻いて頂上に達しているため、さほどの苦労なく登頂できる。

 

 

 2015年3月に登頂した時の写真。

地元の酒が供えられていた。

 

 山頂から見下ろした尾上島。後方が野崎島で、宇久島はその右にうっすらと見える平らな島。なるほど宇久平と呼ばれていたはずだ。

 

 

 北側から見た帆上げ瀬。右の灯台は伏瀬、海中にポツン、屹立している。平戸瀬戸の南に差し掛かるこのあたりから、また風が出て来て

帆走できた。

 

 しばらく前からVHF16chで、英語の長いアナウンスを送信する船があった。最近英語を聞いていないこともあり内容はほとんどわからず。

 

 しかし五島灘でこういうのが聞こえる時には、アメリカ海軍の軍艦が送信していると思って、まず間違いない。

 

 日本の領海だからゆっくり英語を話すとかいう配慮は、まったくない。以前濃霧の日に、英語のアナウンスがVHFから流れた時は英語の数字を延々としゃべっていた。緯度と経度を英語で読み上げ、米軍艦艇がここにいるから他船は注意せよとの意味だということまではわかった。

 

 まだAISが今ほど普及していない時の話しではあるが、五島灘航行中の漁船、フェリーには理解できないだろう。

 

 アメリカ海軍としては、事故が起きた際に事前にアナウンスしたではないか、との弁明をするための形式的なものに違いない。

 

 

 普段、アメリカ海軍や海自の艦艇、海保はAISの電波を発信していない。海自艦艇が台風避難していた時は、中通島有川沖から発信していたことがあるくらいだ。

 

 今回は英語のアナウンスが聞こえたため遭遇するかもと思っていたら、案の定この船が現れた。艦番号105 ミサイル駆逐艦デユーイ 1万トン。後方にタグが随伴、約2ノットの微速前進。機関に問題があって、調整のための出航だったのか。

 

 ウィキペディアによれば横須賀基地所属だが、なぜ佐世保沖にいたのだろう?乗員380人、自衛艦でもこのクラスだと300人以上乗っている。

 

 上五島へ向かうフェリーが抜いて行った。

佐世保市民と市長がその存在を喜んでいる日米海軍艦艇。

 

 台湾に中国が侵攻し日米海軍が戦闘開始すれば、佐世保が恰好の目標となる。最初から東京を核攻撃すれば、全面戦争だ。人口が少なく、軍艦が集中している佐世保を攻撃し壊滅させても局地戦の範囲内ですむ。沖縄の海軍基地然り。

 

 軍人はどの国でのこういう発想をするのではないか。