新上五島町奈摩港を出港し右に中通島(なかどおりじま)を見ながら北上。
この日も北寄りの風で風力4。エンジンのみで走った。
左には穴の開いた島。福江島の近くでもこんな島というか岩を見たことがある。
前日に青方を出て行くフェリー太古を見たが、この日は小値賀島に入って行った。青方からわずか16マイルの距離をゆっくり走っていたわけではない。この船がすごく忙しい船であることは、後でふれる。
右には津和崎瀬戸。中通島北端と野崎島の間の水道だ。
野崎島
この中央部あたりだけが斜面が緩く、この反対側に集落があった。住人はすべて島を去ったが、小値賀島の人たちが中心になって小学校校舎を宿泊施設にしたり、教会跡でコンサートをしたりしてきた。
今年はコロナで中断していた音楽祭を復活させ、ちょうどこのころが佳境だった。この西海岸には以前から小さな波止があった。この写真を拡大すると、波止をかなり大きくしたようだ。天候が許せば接岸可能かも。
野崎島北部西岸中腹にある王位石(おえいし)
柱状の石の高さ24m、その上に5m×3mの石が載っている。人の手でこんなものが建てられるのか、自然の造形にしては奇妙なり。下には社殿あり。
以前は海岸から上がる参道の石の階段があったが、それらしきものは見えなかった。崩壊してしまったようだ。
小値賀島側には浅瀬がある。
宇久を出航して来た九州商船のフェリーが南下して来た。
小値賀島へ向かう船だ。
後方からは太古。
両側から挟まれるとイヤだな。
こちらと先にすれ違えたので、その心配はなくなった。
この太古というフェリー、前日青方沖で見た時には午前10時過ぎに福江を出て青方に寄り、ちょうど出航して来たところだったのだ。
この日は青方のあと小値賀に入港するところを見たわけだ。
太古はさらに宇久平港によったあと玄界灘を直行し夕方には博多着。
そして、日付が変わる15分前に博多を出航。未明にまず宇久平港に寄り、その後青方と奈留に寄港して、午前8時過ぎに福江港に着く、このパターンの運航を年中続けているのだ。
以前は若松港にも寄港していたが、現在の時刻表にはない。
1600トンの船だが、この距離で抜いて行ったから脅威ではなかった。
ただ、宇久平港の出入り口でガッチンコがあるかも、と思っていたらそのとおりになった。
太古の港での停泊時間はわずか10分、こちらが入港しようとしていたらズンズン出て来た。港の出入り口が東西に二か所あるため、どちらから出航して行くか聞こうとVHFで呼んだが、応答なし。アスターンかけて一旦港口から離れた。
オーストラリアではこうした本船も小型船からのコールに応答してくれたし、逆にコールされたこともしばしばだった。
宇久フィッシャリーナに着いた。
38隻のプレジャーボートを係留できる施設だが、半分以上空いていた。
2004年に完成してまもなく来たことがあった。そのころから係留する船は少なかった。当時は奥の階段を上がるとホテルがあり入浴できたので助かったが、そこはクローズしていた。
別なホテルで入浴と食事ができることがわかり、片道20分歩いた。
フェリーや高速船が入るこの港の名称は宇久平港で、宇久港とは呼ばれていない。昔からこのあたりを平郷と呼んでいたことからそうなったようだ。フィッシャリーナもその宇久平港にある。「うくこう」でネット検索してもなかなかヒットしない。
この港には桟橋が多い。
ここにも二つある。
色を変えているのはわかりやすくするためらしい。
平成の大合併で佐世保市宇久となった。
宇久町であった時から箱もの行政の街と言われた。体育館、役所ビル、学校、病院など建築物建設に熱心なという意味だ。
道路、港湾、桟橋、堤防などの土木工事、そういったものにも多額の費用をかけた、土木+建設ということになる。住民の税金だけでは到底賄えないため、補助金、借金も財源とする。当然、返済しなければならない。財政破綻から免れるための一つの方策が合併だ。
牛の肥育が盛んで、牛野菜炒め定食は美味しかった。帰ってからグーグルマップで宇久平港を見ると、奥にある漁港にかなりスペースがあった。どこの漁港も漁師さんが減っている。漁港の近くにはコインランドリーや食料品店もあり、フィッシャリーナよりはるかに便利そうだ。
フィッシャリーナは一泊1200円くらい、水と陸電施設を使うとそれぞれ500円かかる。集金に来た人に頼むとホースを持ってきてくれたが、初めはカビくさい水が出た。しばらくしてそれはなくなったから、ホースが長い間使われていなかったせいだろう。
春にはめずらしく五日間ほど続いた穏やかな天候も終わり、翌日昼過ぎから北よりの風が強まるとの予報。早めに出ることにした。
翌日向かう平戸南端の志々伎山が、二重の堤防越しに見えた。