櫻井翔とはずるい男である。

賢くて、かっこよくて、後輩から「兄貴」と呼ばれるほど慕われていて、男女問わず誰でも自分の虜にする。かと思えばヘタレで不器用な一面もあって、みんながそのギャップにやられる。でも本人はそのことを鼻にかけず、いつも真摯な態度を貫いている。

これまでにどれくらいの数の人間が彼に恋をしただろう。かくいう俺もそのうちの一人だ。いつ好きになったのかは覚えていない。つい最近かもしれないし、あるいは20年以上前のデビューした頃かもしれない。いずれにせよ、俺が櫻井翔という抜け出せない沼にはまってしまったことは確かだ。

メンバーに恋心を抱くのが真っ当でないことは重々承知している。俺たちは20年以上苦楽を共にしてきた仲間で、言うなればかけがえのない存在だ。そこに恋愛という邪な感情が入り込むことで、5人で着実に積み上げてきたものが一気に崩れるような気がしてならなかった。

だから、俺はこの気持ちを墓場まで持っていこうと決めた。好きになってしまったものは仕方ない。その代わりに、翔ちゃんにも、他のメンバーにも絶対に悟らせてはいけない。演技は得意だろう、二宮和也。


楽屋に入ると、新聞を読みながら食事を摂る翔ちゃんがいた。後の3人の姿は見えない。2人きりのこの状況に、自分の顔が赤くなるのが分かった。

とりあえず挨拶しようと翔ちゃんの方へ向かうと、俺が声をかけるより先に彼が目線を新聞からこちらへ移した。

「おはよう、ニノ。今来たの?」

そして優しく微笑む。それを見て、俺の心拍数はたちまち急上昇した。彼の笑顔は生まれながらにしてアイドルだ。その笑顔で一体何人を落としたのか。想像しただけで複雑な気分になる。こういうところが本当にずるい。

俺は咄嗟に口角を上げた。バレてはいけない。怪しまれてもいけない。そう自分に言い聞かせて平静を装う。

「おはよ。そうだよ。ところで3人は?」
「あれ、すれ違ってない? 松潤は電話しながら出ていって、智くんと相葉くんは飲み物買ってくるって言ってたよ」
「そっか。じゃあ俺が最後だね」

そう言うと、翔ちゃんはまた笑って新聞を読み始めた。俺はさっさとその場から離れてソファーに腰を下ろした。たった2往復の会話だったが、疲労感が尋常じゃない。ちゃんといつも通りの自分を演じられただろうか。特に何も言われなかったから大丈夫だということにしておこう。

ちらりと翔ちゃんを見遣る。ここからは背中しか見えない。でも、それで満足だった。今この空間には新聞をめくる音と、ご飯を食べる音、そして翔ちゃんと俺だけ。なんて幸せなひとときだろう。この時間がずっと続けばいいのにと願わずにはいられなかった。

しかし、そんな時間は大抵すぐに終わる。

「ねえリーダー。間違えて買っちゃったおしるこどうしよう」
「飲むしかないでしょ。冷めたらもっと飲みづらいよ」
「お、ニノいる。おはよ」

残りの3人が戻ってきたことで、楽屋はほんの数秒前から一転していつもの空気になった。否応なしに現実に引き戻された俺は、誰にも気づかれないようにこっそり肩を落とした。

「なんかニノ、元気ない?」
「え?」

いつの間にか隣に座っていた潤くんが俺の顔を覗き込む。しまった。よりによって潤くんに声をかけられた。彼は人の些細な変化を見逃さない。そして何より優しい。ここで変に反応したら「何か悩みでもあるのでは」と問い詰められるに違いない。

潤くんは手のひらを俺の額に押し当てて小さく唸った。

「熱はないみたいだけど……大丈夫?」
「ワタクシは今日も元気ですよ。まあ、しいて言えば昨日ちょっとゲームをやりすぎたかもね」

もちろん嘘だ。大事なメンバーに隠し事をするのは心が痛いが、この5人の平和な空気を守るためにはやむを得まい。

「もう。ちゃんと寝てる? ゲームもいいけど、自分のことをもっと気にかけてよ」
「母親かよ。でも、ありがとうね」

心配そうに眉をひそめる潤くんを笑い飛ばす。今はこれくらいのことしかできない。

ごめんね、潤くん。余計な心配をかけて。

潤くんがそのまま俺の隣でパソコンを開いて作業を始めたところで、それまでリーダーと話していた相葉さんが何かを思い出したかのような面持ちで翔ちゃんに話しかけた。あまりよくないこととは分かっているが、俺はスマホを見るふりをしながら耳をそば立てた。

「ねえねえ、翔ちゃん」
「どうした?」
「この前言ってたさ、あの女優さんとはどうなったの?」

どくん、と心臓が跳ねた。女優? 何それ。

「ああ、相葉くんが紹介してくれた」
「そうそう。翔くんのファンの。ドラマの撮影の間中ずっと『会わせてほしい』ってせがまれてさ、本当に大変だったんだからね。で、どうだった?」

知らない。そんな話、俺は知らない。スマホを持つ手が震える。画面はとっくに真っ暗になっていた。

翔ちゃんはしばらく「うーん」と言い淀んだ。できるなら「最悪だった」と言ってほしい。その人の悪口をたくさん吐いてくれたら、どれほど安心するか。

「うん、よかったよ。楽しかった」

だが、俺の思いとは裏腹に、翔ちゃんの口から出てきたのはポジティブな言葉だった。そうだよな、翔ちゃんが誰かを悪く言うなんてありえないよな。それなのに俺は何ということを願ってしまったんだ。つくづく最低な自分に嫌気が差す。

相葉さんが心の底から安心したようにため息をついた。

「よかったぁ〜……」
「彼女によろしく伝えといて」
「うん!」

俺はいたたまれなくなって、気を紛らわせるためにスマホのアプリゲームを開いた。しかし、なかなかコンボが繋がらない。翔ちゃんと相葉さんはもう別の話題で盛り上がっていた。なかなかゲームに集中できず、苛立ちが募り始めた。加えて、そのうち鼻の奥がツンと痛くなってきた。

あ、やばい。泣きそう。そう思ったときにはすでに左頬に滴が伝う感覚がしていた。

「……ちょっとトイレ」

慌てて立ち上がり、うつむきながら楽屋を後にする。誰もいない男子トイレに入り個室の鍵を閉めたところで、とうとう俺は我慢できなくなり咽び泣いた。

「つらい、なぁ……」

浅い呼吸の間に本音がこぼれる。演技は得意だから大丈夫だと思っていたが、それは過信だった。浅はかだった。何か月も何年も何食わぬ顔でいられるほど、恋愛は甘くない。

好きになってしまったものは仕方ない。でも、心のどこかでは「好きにならなければよかった」とも思っていた。彼に恋をしなければこんなにつらくなることもなかった。きっと、いや絶対この先も彼は俺に対して好意を持たない。何のわだかまりも残さずにきっぱり諦められたら一番いいのだが、恋心は俺の中でがんじがらめにされており、解こうとするとこうして涙が出てきてしまう。口内に入った滴は驚くほどしょっぱかった。

目が腫れないようにトイレットペーパーを押し当てて涙を拭っていると、誰かがトイレに入ってくる気配がした。漏れる嗚咽を聞かれるとまずいと思い、咄嗟に口を手で覆った。

そろそろ収録が始まる。涙で濡れてくしゃくしゃになったトイレットペーパーを流し、意を決して個室から出ようとしたそのとき、遠慮がちにドアがノックされた。

「ニノ? 大丈夫? お腹痛いの?」

潤くんの声だった。いつまで経っても楽屋に戻ってこない俺を心配してくれたのだろう。やっぱり潤くんは優しい。そして良い意味でも悪い意味でも物事の変化に敏感だ。凛々しい眉を八の字にした困り顔の彼が容易に想像できた。

俺は2、3回小さく咳払いをして、最大限に明るく振る舞った。

「大丈夫だよ。もう収録始まるよね? すぐに戻る」

潤くんはドア越しでも分かるくらいのまだ何か言いたげな雰囲気を放っていたが、やがて観念したのか「分かった。前室にいるね」と呟いた。足音が聞こえなくなったのを確認して俺はようやく個室トイレから出た。

ごめん、潤くん。ごめん。

この気持ちは誰にも言えない。今までも、これからも。5人がずっと一緒にいるためにはこうするしかないんだ。いつかまた普通に笑って過ごせるようになるまで待っていてほしい。

「翔ちゃん、好き」

俺だけが知っていればいい。

誰も知らなくていい。