答えがないことを受け入れられるかどうかでいきざまって変わってくる、気がする。
わたしは宗教持ってた幼い頃は、無駄に自信にあふれてた。
宗教にはいつだって正解があると思ってたし、正しいことを知ってる自分を他人と比べて幸せだし得だし優れているとさえ思ってた。
「幼い頃は」。
多くの他人と接して多くの人の人生を眺めるほどに、自分はそれほど極端に恵まれているわけではないことに気付く。
あたりまえさね。こんだけの数人間がいれば上見たって下見たってキリがないもんな。
うちよりはるかにきれいで豪華な家に住んで、お母さんは優雅で遊びに行くとお菓子なんか出してくれて、お休みになれば海外へ行ったり、お父さんはエネルギッシュで社会的地位もあって魅力的なおじさまで。
くらべてうちはボロボロでせまっくるしい建物、おふくろはいつだって仕事と宗教活動に追いまくられてて家にいない。おやじもこれといって趣味も人付き合いもなく金も地位も持ってないし、とりたてて幸せそうにも見えない。
もちろん何不自由なく育ててもらったのでそれについては一定の幸せではあったんだろうけど、いわゆる「相対的幸福」って意味ではべつだん幸福だったとも思えない。
当然年を重ねるほどに疑問は頭をもたげてくる。
毎日毎日お祈りをして宗教活動して選挙に新聞お布施とがんばってるわたしらと、そんなんなんもしてないのに毎日幸せそうに裕福に笑って暮らしてる人らと、どうしたって比べてしまう。
どういうこと?あの人らが宗教やったらどうなるの?わたしらがもしやめたらどうなるの?
さてそこで「信じる」だ。
表面上いくら幸せそうでも内側がどうかなんて外からは知りようがない。
それをいいことに「あの人たちより自分らの方が「絶対的幸福」の境涯にいるわけだから精神的に幸福である」みたいな言い聞かせがまかりとおるようになる。
というか、今思えばだけどそうして必死に「信じて」たんだな。
だれもが生きてる以上幸せになりたいと思ってる。
だれかとくらべてわたしは幸せなんだと思えば優越感を持てるようになる。
そしてその幸せの中身はお金だったり地位だったりモノだったり人だったり、ちょっと乱暴な言い方だがそれらを持てない人は精神的充実だったりをすりかえてそこに置くのだ。
宗教は、ある意味そのためのツールのひとつ、なのかもしれん。
みんな真理を求めてる。
でもハッキリ言ってそんなもんはどっちみち見つからない。
いや、「自分だけの真理」は誰だって見つけることができるだろうけど、それは真理でもなんでもないよなたぶん。
一般的に認められる「真理」なんてもんはおよそないと断言しちゃってもいいだろう。
でも持ってたらたぶん幸せだし楽だよな。それがたとえひとりよがりな思い込みであったとしても、同志の数が多ければ少なくともそこでは勘違いが勘違いではなく真理になる。っていうか真理に見える。
それが宗教だったりするんだろうな。
無理矢理答えを出してそれをありがたがったりそれに従ったりするって意味では占いも自己啓発もなにかに心酔するのもみんな一緒だ。
べつに答えなんてなくていいのに、だれかと同じ答えなんてなくていいのにな。


