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おばちゃんの店へ行ったのは朝九時過ぎ。

朝メシ食ってけだの弁当作るだのと、オレがこの場にいたら仕事の邪魔になるのは間違いない。

ここ(小佐々)にいる時間も限られているし、とにかくいる間は行きたい所へ行っておかなきゃ。





(あ、そういや前回は台風で食われへんかったな)




前々回の帰省でタカコ姉に連れて行ってもらった平戸のちゃんぽん屋。

正確にはうどん屋なのだが、周りを見ても皆ちゃんぽんしか食ってないみたいだし、オレの中では完全にちゃんぽん屋としてインプットされている。







【雑然とした店】と言うより田舎の民家。
普通の人は一歩中に入る勇気さえ無いだろう。




店の中はまるでゴミ屋敷。
オレだって初めてタカコ姉に連れて来られた時は、『…姉ちゃん、大丈夫か?』とたじろいだものだ。




(思い出したら余計に行きたくなったなぁ…う〜ん……)


とにかく今日は原爆の日だ。
一旦宿へ戻り、そこでサイレンが鳴ったら黙祷し、それから平戸へ行って昼メシにするか。
















そろそろかなと思い外に出て、その時を待つ。
長崎の中心地だろうが佐世保の外れだろうが、そこが長崎である限り、どんな場所でもサイレンは鳴る。
それが長崎の八月九日、午前十一時二分だ。

乾いた音のサイレンが一分間続く間、それまで宿の隣で土木工事をしていた人が手を止め、しゃがんだそのままの姿勢で目を閉じていた。

長崎と広島が、ナガサキとヒロシマに戻る一分間である。




80年も昔の事なんて、勿論オレが生まれるよりずっと前だ。

それが小学校に通い始めた頃から、夏になると必ず教えられてきた原爆の話。

九州だからかどうかは知らないが、小学校の図書室には必ず【はだしのゲン】が置いてあった。

そんな物が子供の頃から当たり前にあると、物心がついた頃には『手を合わせる日』としてインプットされるのが原爆の日である。

はだしのゲンという漫画は、歴史や物事の道理がまるで解っていない子供にとって、時にはイジメの道具にもなっていた。

生まれつきのアザや、大火傷による痕を持つ同級生に対して投げる誹謗の言葉。それがはだしのゲンだった。

子供というのは時として残酷で、その瞬間に見た物事を、それまで見聞きしたデマや都市伝説だけで判断し、相手の事情など考える暇も無く口にしたりするものだ。

時は過ぎ、はだしのゲンが学校の図書室から消えたのは、もしかしたらそんなところから来ているのかもしれない。

オレはというと、正直言ってあの漫画を見るのが怖かった。

意味がよく分からなかった上、皮膚がドロドロになった人間が辛そうに歩いている絵を見て『気持ちが悪い』としか思わなかったのだ。
これは多分、当時の同級生の殆どが同じ様に感じていたと思う。

もっと読みやすく描いてくれたらいいのに、と誰もが思ったはず。

でも、それは間違ってたと理解したのは大人になってからだった。

実際には、もっと凄惨だったはずだ。

読ませるべき歴史書として、オレは学校に置くべきだと個人的には思う。











(う〜ん…やっぱりウメェなぁ……)



平戸島に着いたのは昼過ぎ。
ちょっと教会のある路地なんかを散策し、例のゴミ屋敷ちゃんぽん屋へ。
今日はその店の向かいにある埠頭から、的山大島(あづちおおしま)へ行ってみようとも思っていた。
が、鬼の様な暑さが夕方からの予定に影響するのは間違い無い。
ちょっと残念だが、大島へ行くのは次回にする事にした。




(何が美味いんか、正直言ってよく分からへんねんな〜。分からへんねんけど、食い終える頃にめちゃくちゃ美味く感じんねん………何か怪しい粉末でも入れてんのとちゃうか?この店は……)



相変わらず謎に美味いちゃんぽんを食べ終え、爪楊枝でシーハーしながら余韻に浸るオレ。
食後一時間くらいは口の中がずっと臭ウマい。何だコレ?

つか、長崎と言えばちゃんぽんみたいなイメージはあるだろうが、実は長崎県民ってそんなにちゃんぽん食わないもんな。
食べるとしたらリンガーハットくらいだが、ちゃんぽん食うのは殆ど観光客。
長崎県民だからって、日頃から頻繁にちゃんぽん食べてる訳じゃない。
圧倒的にラーメン食う頻度の方が高いと思うよ、特に若い子達は。

いやしかし勿体ない、ここのちゃんぽんを食わないのは。





(あ〜美味かった♪さて、後は今夜に備えるか)




夕方からはタカコ姉との時間。
今日は朝から平和授業で忙しかっただろうな。






平和である事に感謝。