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「あった、ココや…」
チェンラーイ県メーチャン郡パハー村。
広い国道以外には、山と田んぼと畑しか無い様な場所だ。
その昔、オレは相変わらず一人で田舎を周っていたのだが、チェンマイで出会った日本人の爺さんに聞いた話でここを知り、たかが一泊だけだったが、強く印象に残った宿として覚えていた。
宿の名前は【民宿FUJI】。
湯浅さんという日本人の旦那さんと、カタコトの日本語を話すタイ人の奥さんが営んでいたゲストハウスだ。
「こんにちはー!」
敷地内にバイクを止め、昔よりも立派になった食堂の方へと近付いて行く。
そこには年配のタイ人女性二人が座っており、何やら野菜のスジ取りをしている最中だった。
「……ニホンジン?」
「はい……あ、湯浅さんの奥さんですよね!?」
「ソウデス…アナタ、前キタ?」
「はい、もう随分前に一日だけなんで覚えてないですよね」
オーナーの湯浅さんが2019年に癌で亡くなったというのを知ったのは、本当につい最近の事だ。
「シュジンハネェ…」
「はい、存じてます。大変でしたね」
宿の敷地にあった食堂は健在だった。
当時は一泊400バーツくらいで3食付きという破格の安さ。懐かしいなぁ…
当時、湯浅さんはまだ50代の後半だったはず。
今のオレと大して変わらない歳だと思ったらビックリするが、月日が経つのはそれだけ早いって事か。
エアコンも無い部屋で虫にも沢山喰われたが、そこに集う大先輩達と語らう時間は興味深いものばかりだった。
湯浅さんは、アカ族の子供達の為に農業支援(職業訓練)みたいな事もやっていて、確かチェンラーイ県から表彰された事もあったはずだ。
宿の裏手にある田んぼには日本米を栽培していて、それは奥さんが作る料理と共に毎日の食卓へ上った。
「今もゲストハウスはやってるんですか?」
「アリマス、ミンシュク…」
「はい、民宿は今も営業されてるんですか?」
「ア~……今、ズト、オキャクサンナイ」
ご主人が亡くなってから4年が経つ。
日本語を使う機会が減ったせいか、奥さんは話す方もそうだが、かなり聞き取りづらくなっている様だ。
宿はやはり閉業状態だったが、訪ねて来てくれる日本人には開放する事もあるらしい。
そういやココ、昔は出稼ぎに来ているタイ人にも部屋を貸したりしてたって言ってたなぁ。
「アナタ、泊マル、イイヨ」
「ありがとうございます。でも、今日はこれからチェンセーンへ向かう予定なんです。また帰りに寄れたら泊まらせていただきます」
「チェンセン、イク?」
「はい、チェンセーンに寄ったあと、チェンコーンまで行く予定です」
途中から、カタコトの日本語とカタコトのタイ語が混ざり合う会話になったりもする。
オレが今日ここに来たのは、もしかしたらこの奥さんの今が気になっている人がいるかもしれないと思ったからだ。
当時元気だった常連さん達も、今は間違いなく後期高齢者のはず。
奥さんの今現在が気になっていたとしても、そう簡単に会いに行ける年齢ではないだろう。
旅のついでと言っちゃあ失礼にあたるかもしれないし、その方達が現在存命かどうかも分からない。
が、そんな方々の中で、万が一でもこの記事に辿り着き、アモンさん(奥さん)の今を知ってもらえたならそれで満足だ。
「お元気そうで安心しました。じゃあ、そろそろ行きますね。美味しいお茶、ご馳走様でした」
今のオレに、エアコンも無く、何年も使ってない部屋に寝泊まりするなんて無理な話だ。
奥さんの年齢を考えても、毎日一人で管理する体力だって残ってないはず。
ただ、食堂の方はまだまだ現役で本当に良かった。
やはり、毎日身体を動かす事だけはしていかないとな。
「キヲチュケテ」
「ありがとうございます、アモンさんもお元気で」
つー訳で、何だか安否確認の為の掲示板みたいになった今回の記事だが、とりあえず奥さんはメーチャンの、それこそ蒸し返す様な暑い空の下でまだまだ元気でした。
どなたかのお役に立てたなら本望です。
以上。
追記
オレみたいなバカのブログを登録して下さっている方の中にも、今現在、癌と闘っていらっしゃる読者さんがおられます。
亡くなられた湯浅さんより年齢もずっと下。
まだまだ弱音吐く歳でもないし、勿論本人もそんな泣き事は一切口に出されておりません。
世の中には、まだ死んじゃいけないのに、自ら命を断つ大馬鹿者もたくさんいます。
何つって良いのか自分でもよく分かりませんが、とにかく何でも、『下らねー』と一笑して大復活してほしいです。
大馬鹿者に関しては、残される人達の事もしっかり考えて、夜の夜中に一人で馬鹿な結論を出さず、酒も呑まず、自暴自棄にならず、サザエさんのテーマでも聴きながら、『下らねー』と思って笑って下さい。
数ある結論をチョイスするなら真っ昼間!そこんとこヨロシク!!
そうすりゃ色々変わるからさ。
バカからの切なるお願いでした!