前回の話はコチラ↑








皆さんは、都市伝説という物を信じるだろうか?


私はこれまで、そういうイロモノに関しては全くと言っていいほど信じてはいなかった。


が、しかし。

私は気付いたのだ。


実は、これまで私がイロモノと見ていた物こそが真実で、真実と思って疑わなかった物こそが都市伝説だったという事に。


それを気付かせてくれた事だけでもここに来て良かったと、今は心からそう思う。









信じる者は救われる。確かに私もだが、ここに来て救われた気がする(色んな意味で)。







神は言われた、『そこに光あれ!』と。



川口浩は言った、『幻の魔獣、バラナーゴはスリランカ奥地に実在したんじゃないか?!』と。





1858年2月11日。

フランス・ルルド郊外のマッサビエルの洞窟のそばで薪拾いをしていた14歳の少女、ベルナデッタ・スビルー。

彼女は目の前に現れた婦人を『あれ』と呼び、最初は聖母と思わなかったそうだ。




198○年某月

大分・別府市内の観海寺温泉辺りでパクったパッソーラを無免許運転していた14歳の少年、オレ。

オレは目の前に現れたオッサンを『だれ?』と呼び、最初は警官だと気付かなかった。




これを只の偶然と言うには余りにも無理があるのではないか?

今思えば、きっとこの頃からここに来る運命という名の十字架を背負って生きてきたのかもしれない。




運命の糸に導かれるまま辿り着いた真実の場所。本来なら洗礼を受ける流れだが、現実的には2cm程の割礼が先だという事に気が付いた。




これまで頑なに信じて来なかった話と言えば、やはり最初に思い出すのは口裂け女ではないだろうか?


が、確かにあの頃、私のクラスメイトだった池上慎一郎君は、それらしき女を見たと言ったのだ。


後にそれは、私が『ゼットン』というアダ名を付けた女子のお姉さんと見間違えたいう事で決着がついたのだが、アレだって実は本物の口裂け女だったのかもしれないのだ。

ゼットンの姉はゼットン以上に大柄な女性で、確かにパッと見は皿を真横に咥えたかの様な口をしていた。

そして、私がゼットンのスカートをめくったりスペシウム光線のポーズを構えたりすると、それを見ていたゼットンのお姉さんは猛烈な早さで私に突進して来るのである。

あの早さが口裂け女と見間違われた原因じゃないだろうか?


因みに、口裂け女というのはパッと出の噂話ではなく、江戸時代後期に活躍した浮世絵師・速水春暁斎(はやみしゅんぎょうさい)の怪談集に出てきたのが発端だと言われている。



 

それがどうしたと言わないでいただきたい。

答えに困る。










さて、今回ここへ訪問するに先立ち、私はこういった事も学んでおいた。


 



φ(・ω・*)フムフム...


 



φ(・ω・*)フムフム...φ(・ω・*)フムフム...


 



φ(・ω・*)フムフム...φ(・ω・*)フムフム...φ(・ω・*)フムフム...




なるほどなるほど。

睡眠学習として聞き流ししたら、5分も経たずに爆睡してしまってほぼ覚えてないのだが、やはり私がこの地に立ったという事実が『導き』だったのではないだろうか?


この日、私が奇跡的に発見したルルドの泉は全国に眠る聖遺物の極一部だったのかもしれない。


気になったので調べてみると、ルルドの泉に関しては長崎県・五島列島の各地にも存在し、福江島にある井持浦教会にはこういった感じで湧いているらしい。







※画像はお借りしました






更に、その教会の前にあるバス停の表示に至っては余りにも直球勝負だ。







※画像はお借りしました





という事は、だ。
やはりここ、【キリストの里公園】も極一部の人々からはイロモノ扱いの目で見られている様だが、入口にあった自信満々の案内図も信用に値する物ではないかと考えられる。






ダヴィンチコードに出てくる様なアナグラムは無いかと必死に探したが解らなかった。
フリーメイソンの痕跡すら発見出来ず。





車の一台も止まっていない駐車場から、主と主の弟のお墓とされる場所までは、スロープ状の長い上り坂になっている(つか、イスキリって弟じゃなくて弟子じゃなかったっけ?)。

私はまず、そこで『ある事』に気付きハッとした。しかも、若い頃のトシちゃんみたいにハッとした。
もしかするとこれは、ゴルゴダの丘へと続く坂道を模しているのではないか?と。

私の背負う十字架という名のバックパックも重いには重いが、それはきっと五十肩のせいだろう。
何故ならばそれは、タオルとおにぎりとウエットティッシュくらいしか入ってなかったからだ。



「……つっ!」



ゼイゼイハァハァと息を切らし、公園内に入ったと同時に痛みを感じた。
やはり天は、私に試練をお与えになっているのか。












アクシデントとは言え、聖なる場所で無駄な殺生をしてしまった事を後悔しつつ、この小さな命が天へと導かれるよう空に祈る。
首もとに付いた傷は心配無い。聖水によって消えるだろう。






(あぁ……正にここが!)





想像していたよりもショボい簡素な墓だったが、主は華美な埋葬を嫌ったはずだ。やはりここに間違いない。






洗礼も受けていない私が、主の墓を前にして祈りを捧げて良いのかどうかも分からない。

仕方なく映画のワンシーンの様に十字を切るが、おそらくそれはやり方が間違っていた様な気がする。

後から気付いたが、あれは小学3年の頃に覚えた敬遠のサインだった。





まあ、平和を祈る気持ちさえ伝われば許されるんじゃないだろうか?
主は大きな心をお持ちのはずだし、きっと大丈夫だと思う。







(え~っと、あとは…息子がすくすく健康に育ちます様に……息子が成人して孫が生まれるまで生きられます様に……)





後になって考えてみればだが、主のお墓に向かってこんなお願い事をするのもどうかと思ったな。柏手まで打ってしもてるし。

ま、真の平和は世界中の異教徒が仲良くしてこそ訪れるってもんだし、『かまへんかまへん、ついでやし全然かまへんよー♪』って感じで受け入れていただきたいものだ。
井持浦教会の入口に至っては、関西人から見れば新婚さんが詰めかけそうになるくらいフランクだしな。









さて……







とりあえずムヒでも買いに行くか。






さっきから嫌な盛り上がり方してるわ、刺された痕が。