名湯・廃墟の湯を心行くまで堪能したら、後はもう他にやる事が無い。
スーパーで買った惣菜をツマミにビールを流し込むだけなのだが、せっかくだからタクシーを呼んで中心地へ繰り出そうなんて気持ちも多少はあった。
市販のヤツは甘過ぎてイカン。
湯けむりただよう川沿いの小料理屋。
暖簾をくぐると、「お一人様?どうぞこちらに」と、カウンターの中から微笑む五月雨女将。
「ビールにされます?」
「ビンでお願いします。アテはお任せしますから、適当に」
捲った割烹着の袖から伸びる細く白い腕と、括ったうなじに頼りなく下りた後れ毛が切ない。
「お客さん、どちらから?」
独りで切り盛りする小料理屋では挨拶代りの言葉だが、大人の恋はここから始まる。
「西の岬から」
BGMはAMラジオ。
ビールをビンで頼んだのは、乾杯を付き合ってもらうため。
「あ~……何だか少し酔っちゃった。今日はもう暖簾しまっちゃおうかナ?隣に座って呑んでもいいかしら♪」
ぬおおおおおーーっ!!
もし本当にこんな展開になるなら、先祖の墓をぶっ壊してもいいぞ今のオレ!!
……さ、本格的に頭がおかしいと思われるので話を戻すが、呑みに出ようにも体調がずっとイマイチな気がしてならない。
長時間の運転による疲労とはちょっと違う、風邪の引き始めみたいなフワフワ感。
PCR検索も済ませて来たからアレではないと思うが、旅先で具合が悪くなるには時期がちょっと……
もしかしたら、先週から中耳炎で熱を出してる息子の鼻水を吸い出してやった時に何か貰ったのかもしれないが、どちらにしてもここで無理して発熱でもしたら最悪だ。
今日はしっかり身体を休める事に専念しよう。
(それにしても汚ったねえなぁ……)
浴衣に着替えて温泉宿気分を満喫しつつも、15年は替えてないと思われる汚ならしい畳に目が行くオレ。
着ている浴衣もほんのり湿ってるし、隅に畳んである布団に至っては10kgくらいあるんじゃないかと思うほどの重量感。
(勘弁してよ……マジで)
宿泊業を営んでて、こういう所に気付かない人ってどんな脳の構造をしてるんやろ?
古さと汚さってのは完全に別の話やと思うんやけどな、オレ。
初日から寂しい夜であった。