1980年 、12月8日。


当時のオレは大分県に住んでいて、家族で食卓を囲みながらNHKの番組【600こちら情報部】を観ていた。

何て事のない、いつもの夕飯時だった。


番組が終わり、画面は大嫌いなニュース放送になった。

当時は、大人が何故ニュースやプロ野球中継を観たがるのか全く理解出来なかった。


テレビから、聴き覚えのある曲のイントロが流れて来て、思わず箸を持つ手を止めた。


画面には、STAND BY MEを歌うジョンの姿が映し出された。











珍しいな、と思った。

ジョンの映像が、テレビに映る事自体がだ。

オレは小学校三年生の頃からビートルズファンで、特にジョンのファンだった。

ませたガキだと思うだろうが、兄弟や近所の兄ちゃんに強烈なビートルズファンがいればそれは普通の話で、例に違わずオレもそういう連中の一人だった。

たかだか一年の間に、ビートルズの全タイトル曲が言える様になったほど好きだったが、学校では話の合う同級生が誰一人いなくなった。

クラスのみんなは歌謡曲で、オレ一人だけビートルズ。

クラスのみんなはゴダイゴで、オレ一人だけジョン・レノン。



「外人の歌なんか変なのばっかりや」

「何かえ?ビートルズっち。ずうとるびの真似やん」←大分弁



今考えると、オレのクラスメイトはセンスの欠片もない(良く言えば子供らしい)奴等ばっかりだった訳だが、それでも当時は『もしかしたら自分はおかしいのかな?』と思うくらい傷付いていた。

みんなと違うという事は、多感な子供心を激しく揺さぶるものだ。
だから何とか話を合わせようと、サザンも好きになったりした。

ところが、サザンの桑田が大のビートルズファンだと知った時、『やっぱりオレは間違ってない。間違ってるのはみんなの方や』と思う様になった。

それでもみんなはサザンさえオッサン呼ばわりしてとりあわなかった。

時代はまだまだ山口百恵や沢田研二であり、ちょっと背伸びしてもオフコースやアリスだった。

佐野元春を聴く様になると、オレに対する変人扱いは更に酷くなった。

そんなオレを唯一庇ってくれたのは、隣の家に住む5歳上のお兄ちゃんだった。

お兄ちゃんの部屋へ遊びに行く度、オレはそこにあるレコードが全て宝物に見えた。



「ジュンちゃんはまだ小学生やけど、なかなか見る目があるね」



今考えればそのお兄ちゃんだって中3のハナタレ小僧なのだが、その頃のオレには憧れの存在としてキラキラ輝いて見えた。

お兄ちゃんにそうやって褒められると、オレは益々自分が正しいと確信する様になっていき、それまで以上にビートルズやビーチボーイズや佐野元春が好きになった。



それが、1980年の冬だった……








《元ビートルズのメンバーのが、ニューヨークにある自宅アパート前に於いて、狂信的なファンによる銃撃を受けて死亡しました。現地からの速報によりますと………》




ブラウン管から聴こえてくるニュースキャスターの声に血の気が引いた。

右手に持った箸を投げ捨て、テレビの真ん前に座り込んだ。


え!? え!? ナニ!? 銃撃!? 死亡!?
やめてよ! ナニ!? 誰が死んだん!?


普通なら、夕食の最中に箸を投げ捨ててテレビにかじりつく様な真似は、当時のオレの家では体罰に値するほど悪い行動だった。

が、オレの母親も若い頃はビートルズが全盛だった歳。兄貴は兄貴で大ファンだった事もあり(確か親父は泊まりの仕事でいなかった)、そんなオレに構うどころか皆が画面に釘付けになっていた。










《殺害されたのは、元ビートルズのリーダーであるジョン・レノンさんで、胸や首などに5発の銃弾を受けた後、同市内にあるルーズベルト病院へと運ばれましたが………》




「う……うそぉ………嘘やああああああーーーーっ!!




変な話、当時まだ小学校四年生だったオレは、殺されたメンバーはリンゴかジョージであってほしいと、心のどこかで願っていたと思う。

それが、まさかのジョン。

今なら分かる。

ジョン・レノンという人物が、当時のアメリカ政府にとってどれだけ邪魔な存在だったかという事が。

当時、アメリカはベトナム戦争で勝てず疲弊しまくっていた。

アメリカ政府は、元より戦争が起きる度に潤ってきた。

が、ジョンは超が付くほどの反戦活動家だ。
ラヴ&ピースの概念は、アメリカ政府にとっては机上の空論でしかない。

殺害犯のマーク・チャップマンは25歳。
犯行後はアパート前に座り込み、その手にはJ・D・サリンジャーの著者、【ライ麦畑でつかまえて】があった。

殺害現場となった当時のダコタハウスの守衛は、元CIAの職員だった。

これが単なる偶然で済まされるだろうか?

どう考えても、若い狂信的ファンを洗脳利用した政府による暗殺事件である。






殺害現場となった、ダコタハウスのエントランスホール。
撃たれた後、入ってすぐ右にある階段を5歩上って倒れた。





翌朝、オレは学校へ行くフリをして家を出たが、近所の雑木林に作っていた【秘密基地】で一日中泣いていた。

辛くて学校に行くのが嫌だったというより、同級生に泣き顔を見られるのが恥ずかしかったという理由の方が大きかったんだと思う。

それに、学校に行けば『やーい、ずうとるび死んだ!ずうとるび死んだ!』と茶化される事くらい、子供心にも容易に想像出来ていたからだ。




夕方になって家に戻ると、母親がボロボロ泣きながら誰かと電話していた。

多分、学校から不登校の連絡が来て、行方が分からなくなったオレを心配してアチコチに電話をかけまくっていたのだろう。




バチ~~ン!!


オレの顔を見て受話器を置いたと同時に、もの凄い形相でビンタを喰らわすお袋。

その後、窒息するかと思うくらいの力でオレを抱き締めて、オイオイ泣き叫ぶお袋。

その夜は、仕事から帰ってきた親父に死ぬほど怒られた。

死ぬほど怒られて死ぬほど泣いたが、それは怒られたから泣いているんじゃなかった。



それほどジョンの死が悲しかった。










そんな事があったあの日から、いつの間にか10年が過ぎた。










そして二十歳になったオレの目は、ブラウン管を通してじゃない、実物のダコタハウスを見つめていた。