前回の「思想と変貌思想」のブログに置いて、誤解があってはなりませんので、
前置きとして、お伝えしておこうと思う事があります。
特別、私の考え方や論は現在あるどこかの宗教団体を指しているのではありません。
あくまでも、私個人の想像上のお話であり、本質的には未来の宗教を憂うという事でのお話で、特定する事や現在のお話ではありません。
特別私個人が宗教により何らかの被害を受けた事は全くなく、またそのような活動をした事がないので、リアルな現実として把握する事での宗教観を見るという事は不可能です。
ただし、ご縁がある知人や友人のお話を聞いて、何となく感ずるものがあるというのは事実なんですけど、それも一宗教というよりも、全体的に個人が感じるものの感想にしかすぎません。
更に、それも現実にご縁がある方達という責任を感じさせるものではなく、広く小説等を通して、文学として或いは歴史(キリスト教あたりですが)から見る側面もある為、決して現実的現代的な範疇を越えております。
私は時に思想の勉強をしており、自己流の学問として物事を考える事があります。
特定の宗教団体を意味するのではないとする事に置いて、いや似ていると思われる感想を持つ読者さんもいるかもしれませんが、全て小説的展開として見て頂きたい。
また、今回そして今後私は、更に様々な見方をブログにアップしていくかもしれませんが、現在の宗教上の問題というのは、歴史的に記述されたもの以外は、現実では通用しませんし、特に傍観者には分りません。
それに信仰は自由ですので、第三者がどうこう言う問題でもありません。
それにしても、未来に拘るというのは、自分達の子孫に置いて、私が作るこの場、今後創作するかどうかはまだ分かりませんが、
そのような劇場・小説のような事がもしあったらならば、現実と混合しないで下さいとする注意を前提に置かなければならない事になりかねません。
ですから未来と言いますのは、まだ先の事なので、現実ではありませんので、
私の未来を憂うとするのは、ある意味で想像でしかないのです。
広義の未来に置ける宗教性に置いて、私は神云々よりも人間として様々な状況が起こるであろうと推測する所謂人間学的見解ですので、寧ろ宗教観よりも人間学としての見方に重点を置く上で、未来の宗教を憂うという気持ちを私は持っております。(何か矛盾しておりますが)
私なりにこのような問題点が起こりうるとする思想論や未来の宗教を憂うという形で、特定の宗教団体を指摘するのではなく、あくまでも想像的なもの大げさですが研究というか、人間学的に見る、学問やあと嗜好の芸術で捉えて行こうと思っております。
また、一貫して想像上と言わざる終えないのは、嗜好の芸術としてそれこそ自由に物事をみて創作もしてみたいな、と思うので尚更のお話です。
時に、あくまでも宗教観ではなく人間観としてのタブーをお伝えする事により、私が感じる一般の人の分別心による真実から離れているものがある場合、どのような認識を持つべきか?或いは、何らかの悪い人間心を呼び起こすのでは?と思われる、金銭に置いて、どのような対策が万人を通して必要なのか?みたいな話も出るかもしれません。
しかし現代の情報時代は非常に発展しておりますので、このような時代にあり思想や外科的手術のような自然なる流れがある事も予想され、まあ、小説的なものより真実は奇なりといった具合で、くだらないお話かもしれない。
しかし一応、私がこの場で展開するかもしれない事は、想像上のシュミレーションというもので、事を見て頂きたいです。
想像上のシュミレーションは、時に、それこそ妄想的な面もあるかと思われますが、全てに置いて、自由に出来たらいいなと思います。
決して、特定の宗教団体を言うのではなく、これまでの歴史より起こりうる未来を考察するという事。
また改善するべく問題点は何かという事を考える事。
また自由に遊ぶ事。
ええ~、何か現実にもあるよ!!とする見方ではなく、全て私の内容は小説だと思って頂けると有難いですし、
もし機会があれば、そのように作成していきたいと思います。
これら総合的に今後の私のブログは、小説だと思って頂ければ幸いです。
またそこから妄想劇ではありますが、感じるものがあり何らかの未来に向けての改善が可能になる事もあるかもしれませんが、それはそれでたまたま一致する面があり必要があるのだろうな?と思われます。
まあ、現在は「思想と変貌思想」を前回、投稿しましたので、次は、これをダンテ的に装飾しようと思ってます。
本当は、おじいさんと孫の雨の日曜日というタイトルで、未来型の物語を書こうかなと思ったのですが、
少し違った面白い芸術センスでこれをやってみようかな?と思っております。
良かったら遊びに来て下さいね。