櫻井さんが僕の家にきて一緒にお蕎麦を食べてから、数週間が経った。


変わらず僕は櫻井さんの家政夫として部屋へいっている。

顔を合わせればいつも通りに話すし、表向きは何も変わらなかった。



そう、表向きは。



変わったこと。

それは、櫻井さんに対する僕の気持ちだ。


 

『俺は、どんな松本くんも好きだよ』


 

僕のことを好きだと言ってくれる櫻井さんに"人を好きになる"という感情の定義がわからない僕には、曖昧な返事しかできなかった。


今思えば、櫻井さんは初めて会ったときから特別だったのかもしれない。

今まで人と深く関わるのを無意識に避けていた僕は、誰に対しても一定の距離を保っていた。


もちろん櫻井さんにも最初は一定の距離をとっていた…と思う。


だけどいつからか、会えば会うほど、話せば話すほど櫻井さんが気になり始めて。

時々、胸が締めつけられるようにギュッてなったり、櫻井さんを見るためにテレビまで買っちゃったり。


何もかもが初めての経験だった。



そして何より、櫻井さんにキスされて…。

僕は嫌じゃなかったんだ。



僕の生い立ちを聞いて抱きしめてくれた櫻井さんの腕が今でも忘れられない。

頭の中はずっと櫻井さんのことばかり。


だけど、櫻井さんはあの日のことに触れることはなかった。






 「松本くん!」



声と共にポンッと肩を叩かれ、ハッとして顔を上げた。



「…え、」


「講義終わったよ?」



いつの間に…。



 壁に掛かった時計に目をやれば、講義の時間はとっくに終わっていた。


「大丈夫?」

「あ、うん…大丈夫」


返事をして机の上にある携帯の画面を見る。
打ち終わっているそれを送ろうか、それともやめようか。
講義の始まる前からずっと悩んでいた。


"明日の夜、空いてますか?この間のお蕎麦のお礼がしたいので、ご飯行きませんか?"


行数にしてたった二行のそれは、大学へ向かう電車の中で打ち込んだものだ。

大学に着いても講義が始まっても、送信ボタンが押せないでいた。