義務教育の根本は「児童生徒の安全と安心を守ること」です。

その上で「基礎的な学力」と「集団生活の仕方」を学びます。

シンプルですがここに9年間の義務教育が集約されています。

 

もし、学校が安全と安心を保証できなかったら、基礎的な学力をつけたり、集団で生活できなくなります。

つまり、安全安心は、すべての教育活動の大前提なのです。

 

たとえば、安心安全ではなくなくするものを一つ挙げると、「いじめ」です。

学級で安全安心に過ごせないので、勉強もできず、集団生活もままならなくなります。

自らすすんで休んでいるのではなく、他の人から「休まされている」状態です。緊急避難と言い換えることもできます。

もう少し、安心安全を阻害するものを言えば、先生方の「体罰や暴言」「不適切な指導」です。

厳しく叱ることも学校では必要な時は多いです。

ただ、何の配慮もなく、感情に任せて怒る、極めて不適切な言葉を投げつける。などはその子を傷つけるばかりか、

指導に効果が薄く、また、周囲の子にショックを与えたり、自分がもし怒られたらどうしよう。という恐怖感を抱かせたりするのです。

感情に任せて体罰を行ったり、暴言を言ったりする先生は「指導力不足」です。

教壇に立つ資格はないとわたしは思っています。

 

なぜ、学校で一番大事な「児童生徒の安心と安全」が保証できないのか。

誰も話題にしません。問題が起こっても、処分して,再発防止に努めます。で終了です。

その先生も教壇に立ち続けますし、過ちを繰り返す先生もいます。

研修を受け、子供が傷つくんだよ。とか、学校教育法で禁止されていますよ。とか、処分されたら家族は悲しみますよ。

とか、アンガーマネジメントをあいて、カットなったら6秒我慢しよう。などの知識を得ても「体罰」や不適切指導は一向になくなりません

なぜ、話題しないのか。とても不思議ですが、教育界では、「その人自身の問題」と捉えている節があります。

その人の過ちや指導力不足なので、その人を処分すればいい。と考えているのです。

 

その面はわたしも一理あると思います。体罰によらない、指導ができる先生はたくさんいます。今の学校はこのような先生方で守られています。

もう一つ、一般の方のは信じ難い人がいると思いますが、このような不適切指導をずるひとと真逆の人も、じつは、「子供も安全安心」を守れない先生なのです。今は体罰を振るってしまう先生よりも、この真逆にタイプが非常に多いのです。

 

ここまで言ってもピンと来られないと思いますので、具体的に言います。

それは、「叱らない先生、叱れない先生、集団を指導できない先生」です。これは教師の仕事以前の問題だと思いますが、

学校には必ずいて、ある共通点があります。

それは、まず「保護者や生徒とトラブルにならないように努めている。」です。

保護者や生徒に人当たりが良く、評判は悪くありません。しかし迎合してしまうため、言うべきことは言わず、あたり触りのないことしか言わずトラブルにならないようにします。

生徒にはいつも穏やかに接しますが、注意すべき場面を見ても、自分で指導しません。見てみないふりし、極力生徒指導には関わらないようにします。

このような先生も授業はするわけなので、当然、授業は成り立たなくなり,子供に言うことを聞かせられず、真面目に頑張りたい子が不利益を受けます。それは、一切怒られないから、子供が好き勝手するのは当然です。

 

また、本当に授業が成り立たなくなった場合、本当に困っている授業者は、管理職等に相談し、2人体制にするとか、なんとか「学び」を補償できるように頑張るのですが、このようなタイプの先生は、それを問題にしません、

 

「離席しようが、隣の子の足をかけたりしていようが放置して、そんなことしたらダメよー。と言うくらいで終わりです。」

問題視しないので授業が成り立たないことに周囲が気付くのが遅れ、手の施しようがなくなります。

「特定の教科の授業で荒れてしまう」これが学校全体が荒れる最初の段階です。

 

私は、人間いろいろだから、指導力が足りない同僚もいるし、授業が上手くない人もいる。生徒を叱るのが苦手な人もいる。

私も足りないことはあるはずだ。だから、教員集団として、人に足りないことは補い合い、力をあわせて子供たちのために頑張ろう。と思っていました。

しかし、このような「生徒や保護者とトラブルになるのを避けるために必要なことを叱らない」教師は多くいます。

そして、あろうことか、「学習評価が甘い」のです。

保護者からのクレームを避けるためになのか、よくわかりませんが、「1」をつけません。という人もいます。

それは、子どもが自己評価を間違うので、客観的な評価基準にもとづいて評価しなくてはなりません。

子供と親の機嫌取りとしか思えないような甘い評価をします。

このため、授業でしゃべっていても特に辛い評価はつかない。と感じた子どもは「好き勝手しても大丈夫だ」と勘違いします。

これは、この子にとってとても不幸なことです。

後で、受験の際や進学してからとても困るからです。

 

残念ながら、このようなタイプの先生は、別に処罰もされないし、生徒や保護者とトラブルも起きにくいです。

それは、初めから白旗を上げているからです。

私はこのような先生がいる限り、悲しい思いや辛い思いをする子供が減らないとおもいます。

今日お話ししたことは、私が学校に見切りをつけた理由に一つです。

 

でも、やっぱり私は許せません。それは「いじめを放置する、見て見ぬふりをする」からです。

子どもが助けをもとめても救わない。救う気がない。そんな人がいます。

 

何度かお話ししましたが、平成23年に滋賀県でおこった陰惨ないじめをうけた中学生が自死した事案ですが、

加害者といわれている生徒と言われる男子の金髪でタバコをふかしている画像がネット上に出回りました。

本人かどうかは別にして、指導しずらい面があったのだろうと推測します。

そして、3人が学校内で被害者を殴っている場面に遭遇した子の被害者の担任は、

「やりすぎんなよ」と言って注意もせず、とおりすぎていったそうです。

 

この先生の後姿をこの被害生徒はどのような想いで見たのだろうと想像するととても悲しくなります。

先生はいじめを見つけ、きちんと対応してくれる。相談にのってくれる。味方になってくれる。救ってくれる。

そうみんな信じています。

しかし、残念ながらそうではない人もいます。

 

何が言いたいのかというと、学校に全部任せるのはリスクを伴うということ。

また、被害者が謙虚になればなるほど、学校の姿勢が強い方になびくこと。

を知ってほしいのです。

学校は信用できない。と言っているのではなく、信じられないような無責任な人もいるので注意が必要。

ということを言いたいのです。

 

第三者委員会の報告書は、多くの事案で共通して、「当初から深刻に受け止めていなかった」「初動が遅かった」

「被害者によりそっていなかった」などがかかれています。

でも、子どもがなくなってしまったら、もう終わりなのです。

なくなってなくても社会の中で普通に生きていけないほどの心の傷を負ったり、

人間不信になったりする子も大勢いるのです。

このことを知っておいて、是非、学校以外に相談できる人、弁護士さんや行政の相談員でも、フリースクールなどでもいいので、

客観的に学校文化を見れる人を味方につけるといいと思います。