「痴漢から身を守るために肌の露出をしないように」との広告フレーズに多くの批判があったそうです。
それはそうです。服装は個人の自由だし、誰にも強制されるものでもありません。我の欲望を満たそうとする近いが100%悪いに決まっています。
しかし、社会や学校でこの論理がまかり通ることがあります。
例えば、校内窃盗、現金をもってきたために盗まれた。という事案があったとします。
これは「不要な現金はもってこない」という校則もあるので全肯定されるわけではないかもしれませんが、
「不要な現金をもってくるからそんな被害にあるのだ」として厳しく指導を受けることがままあります。
これは全くの筋違いで、どろぼうが100%悪いに決まっています。
また、「いじめ」についても「いじめられるような心当たりはないの?」や「いじめられる方にも何か原因があるんじゃない?」と
平気でいう先生も少なからずおられました。
「いいえ、どんな理由があってもいじめていい理由にはならないし、いじめる方が100%悪い」に決まっているのです。
しかし、現実は加害者の方が被害者よりも人数的に多いことが災いして、「うちの子だけじゃない!!」「わたしも前されたことがある。」など、責任転嫁する場合が多く見られます。被害者に責任転嫁するなんてとんでもない話です。
ここで学校が毅然とした態度を見せないと、「では、自分が反省すべきことはお互いに反省しましょう」
「どちらも未熟なこどもです。このようなことで人間関係を学び、人の痛みを知る人間になりましょうね」とか、
「人間過ちはだれにでもあります。明日から切り替えて楽しく学校生活を送ってほしいと思います」など
まったく解決とはかけはられた、耳ざわりのより、うやむやな終わり方をすることがあります。
それでは、やった方は「あーやばかった。誰か違う奴をいじめよう」や「こいつ言いつけやがって、親にも言えないような恥ずかしいことをしてやろう」などと思います。
やられた方は「もう、言わなければよかった。ほんと、後悔、もう学校には行きたくない。この人たちと一緒にすごせない」と
思います。
この学校の誤った対応は、子どもの信頼と希望を奪います。そして、この教訓から得るものは、「後悔」や「絶望」、「憎しみ」です。
「人を憎まず、罪を憎む」という言葉があるように、いじめた子も大事な児童生徒です。
いじめた子を否定する必要はありませんが、「いじめた行為は全否定」が基本です。
「あなたが悪い」ではなく、「あなたがやったこと、言った言葉は許されない」という毅然とした態度が必要なんです。
これをしないから、「いじめた子の心もち」が変わらないから、いじめがその後もわからないように続いていくし、
その子も成長しません。
こう考えると、公立の小中学校はたまたま同じ地域に住んでいて、同じ年に生まれた人の集まりなのでいろいろな子がいます。
学校は集団生活であるので、ケンカやトラブル、いじめなどが起こっても不思議ではありません。
しかし、これを人生の教訓、学びとするならば、是々非々をただし、被害者の名誉と誇りを回復させ、
加害者には心から自分の行いを反省させ、今後どのように生活していけばいいかを考えさせる必要があります。
これは子どもの命がかかっている最も大切なことなのです。
学校の生徒指導力が弱まってくると、毅然とした態度どころか、逆効果になる結果を招きます。
特に、小学校の高学年が要注意です。
それは、いじめのツールのひとつであるスマホ(おさがりスマホ=Wi-Fi環境があるところだけつかえるものも含む)を持ち出す年齢であり、いじめがとても陰湿で巧妙化していく時期だからです。
いままでの指導では通用しなくなる事案もあります。
中学校でやるような指導をアレンジして導入するのがいいと私は思っています。
まず、学校内での解決ができるかどうかかファーストステップなので、
初動の対応こそが明暗をわけると思います。