今日はこれからの「学力」について考えてみます。
10年ひと昔、と言ったものですが、今はひと昔ではなく、だいぶ昔という感覚で時代が進んでいます。
10年前は、2014年で携帯もスマホはなく、折り畳みの携帯を使っていました。
それからどんどん情報化が進み、AIが台頭してきました。
分厚い辞書は電子辞書になり、チャットGTPや Google先生に聞けば何でも答えてくれます。
語学の翻訳機も小型化し、そのうち、スマホに機能として入ってくると思います。
世は情報化、溢れ出すほど情報が入り乱れ、誰でも全世界にむけて、動画や書き込みができます。
オンラインも進み、世界中どこにいてもネット環境さえあれば、仕事も映画も、何でもできる世界になりました。
学校でも一人一台情報端末を持つことができるようになりました。10年前からは考えられないことです。
さて、これからの学力というか、つけておきたい力があると思います。
個人的でやや予言めいた話になるかもしれませんが10年後、2034年には社会がどうなっているか?
新たな仕事生まれると同時に、今までの仕事がAIや遠隔操作、ロボットに変わると思います。
これだけ聞くとワクワクする感じもしますが、私たちが繰り返し覚えたり、勉強したり、身につけた技能は、
時間や修行をしなくても良くなると思います。もちろん伝統産業など全てではないと思います。
私が予想することは、次の通りです。
○ スマートウォッチの翻訳機能で言語が違う人とリアルタイム(同時通訳)でコミュニケーションがとれるようになる。
これにより、外国語を学ぶ必要性が低下する。
○ わからないことはAIに聞き、パソコンを打つことなく、話したことが文字になる。
今でも機能としてはありますが、もっと正確で速くなると思います。
○ 教室で学ぶ必要は最小限になり、時間割によって、他の学校の生徒同士で共同作業や討論ができる。
(ただし文科省は対面での指導は必要としています。)
○ バーチャル、アバター、メタバースが積極的に導入され、自分の分身が担ってくれることが増える。
などです。
どれももう少しで当たり前になるというところまでは来ているので、10年とはいわず、5年後かもしれません。
私がこのことを前提に危機感を覚えることがあります。
それは、「透明で」「現実味が薄く」「無機質で」「スマートで」「効率よく」「無味無臭で」生きていく人々、生きていきたい人々が増えるような気がします。
人間の泥臭さや野性味、不器用さや心につながりや感動する心、涙、汗、そんなものが軽視されるような気がしてなりません。
少し話が逸れてしまいましたが、一番危機感を持つことは、「情報が溢れ過ぎて、フェイクも多く、さまざまな立場からの意見があり、
何が本当で何が間違いなのか」これを判断することが非常に難しくなることの懸念です。
もし、こうなると、ネットの世界での詐欺やさまざまな犯罪に騙される人が大勢いるのではと思います。
10年後は、今よりも高齢者の方が増えます。まさしく私もそうです。
一方で、表現の自由や選択の自由が保障され、情報は溢れてきます。過去の蓄積もあり膨大です。
そうなると、情報に惑わされる、正しいと信じてしまう。根拠なく受け入れてしまうことになりかねません。
つまるところ、情報を取捨選択し、自分の考えをもとに正しいものを判断し、考え、選択する。という「情報の判断能力」や「根拠に基づいた選択力」が必要になると思います。
じつは、何が本当で何が人を貶めるために作られたものなのか。を正しく判断するということは、
知識量と思考力を要します。
「論理思考力」が今、話題ですが、そのような「自分で考え,判断し、選択する力」、これこそが次代がもとめる「学力」であると思います
実はこの学力は、今まさに義務教育で取り組んでいる力なのです。
ただし、教科書を使って教える内容も多いので、このような力をつけるための授業は年間に数単元しか組めないのが現状であるし、
いまだに、「先生が教科書の内容をまとめたことを黒板に書いて、説明する」という50年近く前の授業をされる先生も多いです。
これはベテランの先生に限らず、若い年代の先生でもいます。
それは、「授業とはこんなもんだ」という「モデル」が「自分が学生時代に受けた授業」そのものだからです。
やはり、この問題が今の教育を力のない、目指すところに届かない、授業のやり方だと言えます。
「講義一辺倒」の授業を受けた人はそれが「授業」と思ってしまうのです。
このことは子どもたちに跳ね返ってきますので、しっかりと対策すべきことだと思います。