宮崎県延岡市に「学びの多様化学校」が開校しまし。このことに対し、延岡市の教育長は次のような話されていました。
 
質問: 不登校の子どもたちや保護者に伝えたいことは。
教育長:「子どもたちが学校に通えない背景はそれぞれあるが、学びたい」という意欲がある点では共通している。
『ここなら学べるかも』と思っている。学ぶことで得られるものがある。ぜひ自分に合った学びで喜びを感じてほしい
そのための入り口を準備している。扉に手をかけ、一歩を踏み出してほしい。保護者には一緒に学校を作っていきましょうと話している」
 
私はものすごく的を得た発言だと思いました。私の考えも全く一緒です。
 
一方で「学校に行けなかったら行かなくていい、勉強はしなくても大丈夫」「好きな時間に好きなことをして過ごせばいい」
「心の居場所があればそれだけでいい」という考えもあります。
どちらが正しいとか間違いとかではなく、多くの選択肢から子どもと保護者が相談して選択すればいいことです。
私ごときがとやかく言うことではないことは心得ています。
 
私は、この教育長さんが言う通り、「不登校の要因は子によって様々である。しかし、学びたいと言う意欲がある点は共通している」と思います。
そうなんです、「子どもは勉強することは嫌いだろうな、苦痛だろうな」と考えているのは大人の思い込みです。
確かに、一斉授業の中で理解ができなかったり、それを分かろうとして家庭学習をすることは確かに嫌だし、大変だし、したくないです。
しかし、私の経験からすると「ほとんどの子どもは勉強したいではなく、勉強がわかりたい。わかるようになりたい」と純粋に思っています。
ただ、自分でやり方がわからない、習いに行ってもペースが合わないのでわからない、テストの点数が低くてやる気が出ない、
どこから何を始めていいかわからない。だからしない、できない、やる気が出ないのです。
 
心の元気があり程度回復したら、私はその子に応じた学習支援をすべきだと思います。
それは必ずこの先役に立つことだし、そうなるかは別にして、教室で授業を受けたり、登校する力にもつながります。
中学校はダメだったけど,高校から頑張りたいと思い気持ちを実現に近づけることにもなります。
 
このことを仮に「子どもは勉強なんかしたくないはず」とか、「自分の居場所があってゲームをしたり、漫画を読んだり、遠足に行ったり、たこ焼き作ったりして楽しめれば充分」と思っている人がいたらそれは、子どもの本心とその子がもつ可能性に気づくことなく、自分の物差しだけで子供を見ている人だと私は思います。
 
何度も言いますが、全てを否定しているのでは決してなく、このような段階(居場所を見つけ元気になること)は必ず必要だと思います。私のところでもそこを最優先しています。
但し、その上に子どもの可能性の伸ばすスキルやプログラムがないとすれば、それは、子どもの可能性を止めてしまう、
一般社会から遠ざけてしまう危険性もあると感じます。
 
別室登校の課題もこれです。先生方が順番に見守りについてくださっても、メンタルの状態も学年も違う子どもたちが集まった場所で勉強を教えるのは不可能です。結局子ども任せになるので小説を読んだり、漢字や単語の書き取りをして過ごします。
ICTで授業の様子を中継していても制度上は欠課となり、授業を受けたことにはならないのです。
ときどきつないでも、内容がわかるはずもありません。
当然、別室登校の子は教科の評定はつかないので内申点はありません。
学校に行って、出席しているのに高校を受験する時に不利になります。
当日のテストが良かったから入試に通ると言うのは大きな誤解です。日本全国どこの学校も内申点は半分程度で合否の材料とします。こうなると、別室登校をしていても全日制の高校に受かるのは大変困難になるのです。
合格する場合ももちろんありますが。
 
こうなることがわかっているに「出席」だけを優先する意味は大人の自己満足です。
私だったら、我が子は勉強をマンツーマンで見てくれ、心理的支援もし、学校との連携をしてくれた上に「出席扱い」にしてもらえる民間施設にやります。私は今、それを目指し、実行しています。
 
この9ヶ月やってみて、「子どもの可能性はすごいなあ」と思うし,「勉強がわかるようになりたい!」と子どもは思っているんだな。と実感しました。だからマンツーマンでその子がわからなくなった場所まで戻って少しづつ「わかった!」「できた!」を繰り返すことで、必ずわかるようになります。
そして時間はかかりまさ必ず追いつきます。そうなると高校に行きたいな、他の教科もやってみたい!という更なる意欲につながると思います。
 
「勉強なんか二の次」と言う時期もあるでしょう。しかし、子どもの本音として、「勉強がわかりたい!」という意欲があることを忘れてはいけないと思います。