「GIGAスクール構想」による子ども一人1台の情報端末を与え、授業や諸活動へ活用することが全国で急速に広がりました。

もう、幼稚園くらいの子がお母さんのスマホを操作する光景はめずらしくないものとなりました。

 

学校内の業務も急速にICT化してペーパーレスの会議やネットワーク内でのやりとり、学校日誌、保健日誌、出席簿などのデータによる記載や提出なども浸透していると言えます。

ただ、我々の年代、50代くらいの例えば「日本語文書作成」ソフトを使って文章を作成していた人々は、パソコンの研修を数年に何回か受けただけで、十分にスキルを身に着けることができない人も多いと思います。

 

特に、ワードを使いこなす若い人々からは想像ができないかもしれませんが、私もワードで罫線を上手に引くことができません。

エクセルの数式も3つくらいしか知りません。

 

特に、横文字を前提につくられているソフトでは、国語の先生のテストづくりは非常に難しいという声をあちこちから聞きます。

本市では、以前使っていたソフトで作った文書やデータ、テストなどは、学校のパソコンではPDFのように見ることはできても修正や編集はできないので、役に立ちません。

結局、データの持ち出しや持ち込みもできない決まりなので、学校で一からつくるしかないのです。

このような状態になって10年くらい経つと思いますが、未だ、苦しみ、苦労されている先生も多いと思います。

先生方の業務をへらすために、仕事の一部を支援員等の外部の人におまかせするという予定もあるとのことですが、

各学校にパソコンにめちゃくちゃ詳しく、いつでも相談にのってくれる「パソコン何でも支援員さん」が週に3回くらい来てくれると学校現場はものすごくありがたいと思います。

 

まだ、今の段階ではICTや使いこなし、授業でも活用できる先生ばかりでもないわけです。業務の効率化を進めるための施策ですが、活用の仕方を勉強するのにものすごい労力がかかります。

 

すこし話がそれましたが、子どもたちの方が使いこなせていると思います。

私も中学生によく教えてもらってました。この「GIGAスクール構想」と「コロナの広がり」が「リモート学習」を一躍注目させ、一気に「なんでもリモートでいいじゃん」みたいな風潮もあるように感じます。

また、この取り組みに呼応するように「通信制高校」や「リモートの学習教材」等も多く利用されるようになりました。

 

大学生がコロナ明けで大学の授業を受けたとき、多くの学生が「長い」「とてつもなく長い」と言っていました。

それは大学は一コマ90分ですが、家で「リモート学習(動画を見るタイプのもの)」は2倍速、もしくは3倍速でみていたとのことでした。少なくても45分、短ければ30分程度で終わることになりますので、実際の授業がとてつもなく長く感じるのは当然でしょう。どちらにせよ、私はどうしても「なんでもリモートでいい」というのは古い人間だからかもしれませんが、どちらかというと否定的です。

 

実際の生身の人間が発する言葉を聞くことと、同じ人間ですが画面越しで聞くことは大きく違いがあります。

リモートで伝わらないものそれは、話をしている時の「場の空気」「話し手の熱量と言霊」です。

「そんなオカルトチックな」と笑われる方もおられるでしょうが、実際、「目には見えないもの」を生身の人間は発していると私は思います。

 

「ガンバの大冒険」というシリーズの児童書作家、斎藤惇夫さんは、10歳までに保護者が一日10分でもいいから直接絵本を読み聞かせてほしいと言っておられます。

動画ではなく絵本。その理由として斎藤先生は、「絵本は文章と​挿絵から場面や心情をよみとる想像力が必要、そのための豊かな想像力が養われる」そして、「自分と絵本の主人公と同一化させ主人公の感情を味わうことができる」そうです。

「与えられた動画」にはこの2つがなく、決定的に違うとおっしゃられています。

また、親が絵本というツールをつかって物語の中に入る付添人として読み聞かせをすることで物語に

すっと入っていくことができる。のだそうです。

 

そういえば、自分が子どもの頃、読んでもらった本はいまでも覚えています。

動画がだめというわけではなく、「とってかわるものではなく、今く活用するものだ」という意識が必要じゃないかと思います。

 

本当に、すべての学びが「動画」として用意され、好きな時に学び、何度も繰り返し見ることが「義務教育としての学び」に代わるものになるとすれば、学校も先生も必要ではなくなります。

でも、私は今から100年たっても、「人と相対してやり取りする学びの大切さ」は軽視されないと信じています。