ブログの公開が前後してすみません。
「私を変えたひと言」、家庭教師の子から「先生が学校に来るな」と言ったという話の続きです。
私がその先生を訪ねて職員室に行くと、先生は不機嫌そうな顔をして廊下に出てきました。
廊下がすごく寒かったことを覚えています。先生と対峙した私は、
「学校で迷惑をかけているかもしれませんが、先生が子どもに学校に来るな。というのはおかしくありませんか?」
と言いました。するとその先生は、「あの連中は授業もでない、外で遊んでいるだけ、みんな迷惑している。そんな奴は来なくていい」と言いました。
私は、「先生が子どもを切り捨ててどうするんですか?」と続けて言うとその先生は私に信じられない暴言を吐きました。
声を荒げて、「家庭教師かなんか知らんけど、大学生が先生でもないのに、わかったように言うな!!」と言ったのです。
ブチッブチッと何かがはじけ、私は「よーし、そしたら俺が先生になってからもう一回同じことを言ってやる。それまでまっとけよ。」と言って学校を去りました。
次の日、朝から大学の学生課に行き、教員になる方法はないか。を尋ねました。すると、小学校の先生は無理だけど、中学校なら、2年生から今の授業+教職員課程の単位をとればなれんこともないよ。と教えてくれました。
「教科は何がありますか?」と重ねて尋ねると、「君は商学部だから『商業』か『英語』か『社会』のどれかひとつとれるよ」と言いました。どれも苦手な教科です。
その帰り道、「商業」はまずない。『英語』は柄じゃない。残りは「社会か」と思いつつ「社会」にしようと決めました。
この決断がこれから先、32年も中学校で社会科の教員をするとは想像もしていませんでした。
また、私は家庭教師の家に行き、その子に、「おまえ、くやしくないか?俺は悔しいぞ。高校は本当に行く気ないのか?」
と聞くと「行けるものなら俺もいってみたいよ」と言ったので、「よし、じゃあ、高校に入って先生たちをあっと言わせよう」
と話しました。
そして、ほぼ毎日、勉強を教えるようになりました。掛け算もあやしいところがところどころあり、大丈夫かな、と思いながらも
頑張っていました。もちろん、そんな簡単には人は変わらないんで、学校では相変わらず、家にいってもいないということがあったり、お母さんに聞いたら、暴走族の集まりに行った。とのことだったので、迎えに行ったこともありました。
そんなこんなで、約2か月弱、勉強し、ある私立高校に合格したのです。
本人はとてもよろこんで、仲間からも「いいなあ、」と言われたようです。それから少し格好も落ち着き、血走っていた眼光はすこし穏やかになったような気がしました。これが、2月初めでした。
その後、その子の親づ手で「うちの子も面倒を見てくれないか」と頼まれて、引き受けることにしました。
私が最初に家庭教師の子ども部屋にいたとき、頭がパンチパーマだった子でした。
この子は中1程度の学力はあり、3月の公立受検まで1か月、「本当に行きたかったら言った通り頑張れ!!」と励まし、
テストのどこの部分をどれくらいとれば合格するのかを先生方にレクチャーしてもらいながら考え、
各教科で「この部分だけ解く」という作戦をたてて取り組みました。
これも3月に見事、実業高校に合格。本人も親御さんもものすごく喜び感謝されました。
余談ですが、この子は卒業式の後、バイクに無免許で乗り、自損事故を起こし、あごを骨折するという重傷を負いました。
そして、高校の入学が2か月弱遅れてしましました。幸い、高校生入学前だったので、合格も取り消されず、処分も行けなかったようです。無事高校生になれてよかったと思いました。
それから同じような「いわゆる不良少年」を女子生徒も含めて14人の子どもを高校に合格させました。
途中でやめた子もいましたが、立派に卒業した子もいます。
私は2年生からバイト量を減らし、まじめに学校に行き、教員免許を取るために頑張りました。
今までが今までだったので、4年生になって、友達が週に1回1~2時間、授業があるだけだったのですが、
私は毎日、びっちり授業を入れなければ卒業できないほどでした。
そして、念願の教員免許(中1種社会、高1種社会)を手にしました。
そして3年余りのリベンジを果たすために中学校に向かいました。これが平成3年の3月の話です。
我ながらヘンテコな人生です。