【丸亀歴史ロマン街道】≪歴史編≫玄要寺・1
今回は京極家墓所のある『泰雲山 玄要寺』についてです!
京極通り沿いにある玄要寺は、昔は相当大きな敷地を持っていたようです。
もともとは京極家のご先祖様である、佐々木源氏の菩提寺として近江伊吹山下に建立されたとのこと。
そして関ヶ原の合戦後、京極高次公の時に和尚を迎えて中興開山し、
その後は京極氏と共に各地を移りました。
そして京極高和公の時丸亀に移り、現在に至ります。
山号の「泰雲」は高次公の諡名で、お寺の名前の「玄要」は忠高公の諡名なのだそうです。
お寺の名前ひとつにも想いや意味が込められているんだなぁ…
諸事情により本堂に入ることができなかったので、
早速名君と名高い丸亀京極家6代目「高朗(たかあきら)公」のお墓へ…
白壁と立派な木の門に囲まれた、高朗公の墓所。
(通常鍵がかかっています)
丸亀京極家6代目藩主・京極高朗公は、14歳で藩主となり、40年にわたって丸亀発展の途を築いたのです!
先日の「うちわの港ミュージアム」の時に出たように、丸亀を代表する産業の1つである「うちわ」作りを盛んにし、「西讃府志」(地歴書)60巻を作ったり、新堀湊を作るなど今に残るものを多く残しています。
実は歴代丸亀京極家の藩主の中で、唯一玄要寺にお墓があるのがこの高朗公なんです
歴代藩主は京極家の父祖の地である近江にお墓を作っているのですが、この丸亀の土地を非常に愛した高朗公だけはこの玄要寺にお墓があるのです
京極家は佐々木源氏の流れを汲む名家なので、近江の名家という誇りが常にあったのでしょうね。
でもきっと高朗公以外の歴代藩主も、自らが育った丸亀の地を愛していたと思います^^
そうでありながらも近江にお墓を作っていたのはやはり京極家という血筋に刻まれる郷愁だったのでしょうか…。
そんな中、高朗公は7代目藩主・郎徹(あきゆき)公に家督を継がせ、やがて明治維新を迎えます。
維新後は東京へ…というのが新政府の方針でしたが、それに従わず生涯この丸亀の地に住み丸亀を愛し続けました。
玄要寺というお寺の墓地でありながらお墓の前に鳥居があるのは、明治政府の神仏分離令によるものなのでしょう。
見えにくいかもしれませんが、灯籠の真ん中あたりに家紋があるのが分かりますか?
京極家の四つ目結家紋は通常
↑このような形(□)で並んでいるのですが、灯籠の「常夜灯」の「常」の字の左上あたりにある家紋は四角が斜め(◇)の隅立て四つ目紋になっています。
聞いたところによると、本家だけが通常の四つ目家紋を使うことを許されていて、分家は隅立て四つ目などアレンジされた家紋を使っていたのだそうです。
本家はどちらを使ってもいいようで、高朗公のお墓には両方の家紋が見られました^^
隅立ての方が見た目が良いためそちらを使うこともあったらしく、この辺にも丸亀アートが感じられました
ちなみに高朗公のお墓は、鳥居をくぐると目の前に小さい石の扉があり、通常は開いていません。
お城祭りの時に開くとのことですので、是非その機会に行ってみてくださいね
高朗公の墓地左手奥には家臣団のお墓が、もっと左手に行くと仇討ちで有名な田宮坊太郎という人物のものと伝わるお墓があります。
この仇討話についてはいずれ別の形でご紹介したいと思います^^
長いので一回切ります☆
~~つづく~~
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