「音の歳時記」
詩 : 那珂 太郎
一月 しいん
石のいのりに似て 野も丘も木木もしいんとしづまる 白い未知の頁 しいんーーとは無音の幻聴 それは森閑の森(しん)か 深沈の深(しん)か それとも新(しん)のこころ 晨(しん)の気配か やがて純白のやははだの奥から 地の鼓動がきこえてくる
二月 ぴしり
突然氷の巨大な鏡がひび割れる ぴしり、と きさらぎの明けがた 何ものかの投げた礫のつけた傷? 凍湖の皮膚にはしる鎌鼬? ぴしりーーそれはきびしいカ行音の寒気のなか やがてくる季節の前ぶれの音
三月 たふたふ
雪解の水をあつめて 溪川は滔滔(たうたう)と音たてて流れはじめる くだるにつれ川股に嫩草が萌え土筆が立ち 滔滔たる水はたふたふと和らぎ 光は漲りあふれる 野にとどくころ流れはいつそう緩やかに たぷたぷ たぷたぷ 汀の草を浸すだらう
四月 ひらひら
かろやかにひらひら 白いノオトとフレアアがめくれる ひらひらひらひら 野こえ丘こえ蝶のまぼろしが飛ぶ ひらひら空(くう)の花びら桃いろのなみだが舞ひちる ひらひらひらひら 緩慢な風 はるの羽(は)音
五月 さわさわ
深緑の木立にさわさわと風がわたり 青麦の穂波もさわさわと鳴る 木木の繁りがまし麦穂も金に熟れれば ざわざわとざわめくけれど さつきなかばはなほさわさわと清(す)む 爽やか、は秋の季語だけれど 麦秋といふ名の五月(さつき)もまた 爽やか
六月 しとしと
しとしとしとしとしとしとしとしと 武蔵野のえごのきの花も 筑紫の無患子(むくろじ)の花も 小笠原のびいでびいでの花も 象潟の合歓(ねむ)の花も うなだれて絹漉の霖雨(ながあめ)に聴きいる しとどに光の露をしたたらせて
七月 ぎよぎよ
樹樹はざわめき緋牡丹は燃え蝉は鳴きしきる さつと白雨(ゆふだち)が一過したあと 夕霧が遠い山影をぼかすころ ぎよぎよぎよ 蛙のこゑが宙宇を圧しはじめる 月がのぼるとそれは ぎやわろっぎやわろっぎやわろろろろりっと 心平式の大合唱となる
八月 かなかなかな
ひとつの世紀がゆつくりと暮れてゆく 渦まく積乱雲のひかり光がかなでる銀いろの楽器にも似て かなかな かなかなかなと 蜩のこゑはかぼそく葉月の大気に錐を揉みこむ 冷えゆく木立のかげをふるはせて
九月 りりりりり
りりりりり……りり、りりり……りりり、りり……り、りりりり…… あれは草叢にすだく蟲のこゑか それとも鳴りやまぬ耳鳴りなのか ながつき ながい夜 無明長夜のゆめの芒をてらす月
十月 かさこそ
あの世までもつづく紺青のそら 北の高地の山葵(わさび)色の林を しぐれが颯颯と掠めてゆくにつれ 幾千の扇子が舞ひ 梢が明るみはじめる 地上にかさこそとかすかな気配 栗鼠の走るあし音か 地霊のつぶやきか
十一月 さくさく
しもつきの朝の霜だたみ 乾反葉(ひそりば)敷く山道を行けばさりさり 波うちみだれる白髪(しらが)野を行けばさくさく 無数の氷の針は音立ててくづれる 澄んだ空気に清(す)んだサ行音 あをい林檎を噛む歯音にも似て
十二月 しんしん
しんしん しはすの空から小止みなく 白模様のすだれがおりてくる しんしん 茅葺の内部に灯(あか)りをともし 見えないものを人は見凝める しんしんしんしん それは時の逝く音 しんしんしんしん かうして幾千年が過ぎてゆく