【努力より「遊び」が必要】

中野信子氏の心に響く言葉より…



人間を人間たらしめている条件は、いったいなんでしょうか。

わたしは、そのひとつは「遊ぶこと」だと考えています。

「遊ぶ」ということは、生きていくために必要のない、 無駄な部分にリソースを割くということです。


例えば、文化や芸術などに取り組むことは、人間として、本来的に豊かで洗練された営みです。

少なくとも、知性がなければ遊ぶことはできませんから。


しかし、現在は「賢く生きていくにはなるべく無駄なことをしない」という、合理的な方法ばかりが評価されがちです。

仕事はもちろん、生活までも合理性を追求し、「必要なことしかしない」「必要なものしか持たない」姿勢が、まるで人間として素晴らしいことであるかのようにいわれることもあります。


そのように社会から「遊び」を排除した反動なのか、逆に新興宗教やスピリチュアルなものに惹かれる人が増えました。

また、怪しいビジネスやインターネットでの中傷行為などにハマっていく人も増えています。

人間の脳は機械のようにはできていません。


1998年に米国のソーク生物学研究所の研究者たちが、大人でも脳に新しく神経細胞が生まれることを発見しましたが、新しい細胞が生まれても、「刺激(=遊び)」 がなければ細胞はすぐ死んでしまいます。

脳にとって「遊び」は、生きていくために必要な餌でもあるわけです。


いまの日本人は、「生き残るために努力せよ」といわれ続けて生きています。

でも、こんな状態で、健全な自己肯定感を持って生きていくことなど到底できません。

人間は、もっと「遊び」が必要な生き物なのです。


《人間は努力よりも「遊び」が必要》


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本田宗一郎氏のこんな言葉がある。

「遊びに行くのはモテに行くことだと私は信じている。

縄のれんや、煮干しをかじって立ち飲みする酒屋の店さきに行くのだって、どこかしらモテるために行くのである。

縄のれんのおばちゃんや、酒屋のおっさんが、笑顔を向けて歓迎し、たがいに気の合うことがうれしいのである。

酒を飲んで楽しいのは、私にとって、何のかざりもなく相手と共感できるときである。

そのためによく遊ぶのである。

私の人生は仕事で明け暮れはしたが、遊ぶのもまことによく遊んでいる。

これは、私のささやかな人生哲学たる、相手の身になることの初歩なのだ。

金を出すのはオレだというので相手を無視したところで、そこに何の楽しさがあるだろうか。

遊びというのは、大切なものである。

遊びのへたな人間は人にも好かれないし、商売もできない。

またとない時間を、その場にいる人たちとみんなで、より楽しく、よりほがらかに、 共感の笑いとともにすごさずして何の遊びだろう」(本田宗一郎 「逆境」を生き抜く力/ KKロングセラーズ)より




「遊ぶ」とは、酒を飲むだけではない。

「人生は冥途(めいど)までの暇つぶし」という今東光大僧正の言葉の通り、「暇つぶし」のことだ。

「暇つぶし」というと言葉は悪いが、つまり、「無駄なこと」や「役に立たないこと」、「ばかばかしいこと」、「生産性のないこと」などを、大(だい)の大人が真剣にやることだ。


「まじめ」すぎる人を、「くそまじめ」という。

「くそまじめ」な人は、他人にも「まじめ」であることを強要しがちだ。

クスっと笑ったり、ふざけたりすると猛烈に怒ったりする。

「遊び」がないから融通がきかないし、冗談や遊び心も通じない。

余裕がないということだ。



千利休にこんな話がある。

『千利休の弟子である丿貫(へちかん)が、千利休を自分のお茶席に招いたときに、庭の入り口を入ったところに落とし穴をつくったというエピソードがあります。

あらかじめ風呂を沸かしておいて、利休さんにお風呂に入ってさっぱりしてからお茶を召し上がってほしいというストーリーを、丿貫さんは考えていたのです。

ちなみに、利休さんはきちんと落とし穴に落ちて、「穴があるのは知っていた。この丿貫のもてなしに、穴に落ちないのは失礼だと思った」と言ったそうです。』(DIG THE TEA)より



『努力より「遊び」が必要』という言葉を胸に刻みたい。