【一生、修養を続ける】


藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…


九十年の生涯を修養に生きた常岡一郎氏の言葉がある。 

「勤勉、努力、誠実の積み重ねは明るい心を生む。わがまま、勝手、怠け、不実、その積み重ねが暗い心、冷たい心、ずるい心、苛立つ心になる」 

修養は明るい心をつくる努力、とも言えよう。 


人の上に立つ人の心得を説いた古典の名著『大学』は「修己治人(しゅうこちじん)」と教える。

己を修めて初めて人を治めることができる、ということである。

「治める」は支配することだけではない。

「治」には助ける、育てるという意味がある。

人は己を修めた分だけ人を助け、育てることができる、と『大学』は教えているのだ。


修養のないところに人生の繁栄、発展はない。

後世に伝承すべき人生の大事である。 



安岡正篤師が若かりし頃の豊田良平氏(コスモ証券元副社長)に語った言葉が思い出される。 


「賢(けん)は賢なりに、愚(ぐ)は愚なりに、一つのことを何十年も継続していけば必ずものになるものだ。

君、別に偉い人になる必要はないではないか。

社会のどこにあっても、その立場立場においてなくてはならぬ人になる。

その仕事を通して世のため人のために貢献する。そういう生き方を考えなければならない」


その立場立場においてなくてはならぬ人になる・・・安岡師がすべての人に託した願いである。


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百歳を超えた松原泰道(たいどう)氏はこう語ったという。

「佐藤一斎(いっさい)が『言志晩録(げんしばんろく)』の中で、たとえ視力や聴力が落ちても、見える限り、聴こえる限り、学を廃すべからず、と言っている。私も老いてきましたが、この言葉を糧として死ぬ間際まで読むこと、書くこと、話すことは続けていきたい」


同様に、百歳を超えた伊與田覺(いよださとる)氏の言葉。

「東洋の老いは人間完成に向けた成熟期なのです。年を取るほど立派になり、息をひきとる時にもっとも完熟した人格を備える。そういう人生でありたい」


まさに、この言葉、姿勢が、明るい心を生む。

そして、「一燈照隅(いっとうしょうぐう)」の生き方でもある。

最初は一隅を照らすような小さな燈(ともしび)だとしても、それが百人、千人、万人と集まれば、最後は、国の隅々まで照らすことができる。

そのためには、「社会のどこにあっても、その立場立場においてなくてはならぬ人になる」ということ。


賢は賢なりに、愚は愚なりに…

一生、修養を続ける人でありたい。