【人に抜きんでる努力】


内藤誼人(よしひと)氏の心に響く言葉より…


他人と同じことをやっているうちは、それは「努力」とは呼ばない。

他人よりもたくさん努力するからこそ、「人に抜きん出る」ことができるのであって、そこまでいってこそ、初めて努力と呼べるのである。 


週休二日をきっちりとって、年間の有給休暇もきちんと消化して、趣味のゴルフだ、旅行だと遊びまわっていて、それで「いつかビッグになってやる!」と言うのは、虫の良い話である。

そういう人にかぎって、「俺は、努力している」と言うのだから、目も当てられない。 


たしかに、そういう人も、何かしらの努力はしているのだろう。 

しかし、人と同じ程度の努力しかしていないなら、得られる結果も、平凡なものになるに決まっているのである。 

みんながやっていることをあなたがやったからといって、「みんなについていく」のがせいぜいのところであって、「人に抜きん出る」ことなどできはしないのだ。 


会社でもそうで、まったく何の経営努力もしないで倒産する会社はない。 

努力しているのにつぶれていくのだ。 

なぜ、つぶれるのか。 

それは、他の会社に比べて努力の相対量が足りないからである。

自分では努力しているつもりでも、他の会社がもっと頑張っていれば、自分だけが置いていかれてしまう。

そう やって、会社はつぶれていくのである。 


いくら努力しているといっても、決して努力がゼロなわけではないといっても、あなたが毎日三○の努力しかしていないのなら、八○の努力をしている人には、毎日五〇ずつ差をあけられていくのである。

自分では進んでいるつもりでも、どんどん後ろに置いていかれてしまうのだ。 


私たちは、ともすると自分がやっていることを過剰に推定する傾向がある。 

たとえば、テキサス大学のケリー・マイケルソン博士が、一○○○名以上の父親に、「あなたはどれくらい育児に協力していますか?」と尋ねる一方で、母親にもインタビュ ーしてみると、父親は、子どもと過ごす時間を、母親よりも一七・六%も長く見積もるこ とが判明したという。

たいていの父親は、「俺だって、やっている」と思い込みやすかったのだ。 


あなたが、どれくらい頑張っているのか、私は知らない。 

しかし、本当にそれが努力と呼べるものなのかどうかを、今一度だけ考えてみてほしい。 

私たちは、我が身が可愛いから、ついつい自分がやっている努力を大きくとらえがちだ。

しかし、傍から見れば、そんなものは努力のうちには入らないかもしれないのである。

本当に努力しているなら、「人に抜きん出る」ものであり、それができていないのなら、残念ながら、まだまだ努力の余地がある、ということである。



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昨今の風潮では、「人より抜きんでる」とか「並外れた努力が必要」というと、多くの人は引いてしまう。

とくに、このコロナ禍の2年を過ごした人たちの意識は大きく変容している。

そんなに頑張らなくてもいいじゃないか、ゆっくり生きるのも大事、と。


もちろん、人間個人としては、のんびり、ゆったり生きる価値観が大事なことは言うまでもない。

コロナ禍ではこの考え方、すなわち、人との接触を極力避け、新しい人と会わない、新しいところへ出かけない、新しいことへの興味を失うといった、すごもり的行動様式がすっかり身についてしまった。


しかし、これが会社だとしたらどうだろう。

会社が、新商品開発や、新しい業態開発、新たな人材開発等への興味や関心を失い、すごもってしまったとしたら、早晩その会社は倒産する運命にあるのは自明の理だ。

いつの時代であろうと、常に変化に対応し、新しいことへの挑戦といった、他社より抜きんでた努力をすることは、生き残るための最低限の条件だ。


コロナ禍が収まりつつある今こそ…

「人に抜きんでる努力」を今一度思い起こす必要がある。