遠く離れた国、ポーランドが親日国であり、
いまも両国は強い心の絆で結ばれていることを
ご存じでしょうか。

その原点は、大正時代のある出来事に
ありました。

度重なる戦争や大国の思惑によって、
当時のポーランドは悲惨な状況にありました。
ポーランド人は家族もろともシベリアなどに
送られ、多くの孤児が生まれました。

その孤児たちに救いの手を差し伸べ、
国内で保護したのが日本だったのです。
感動の歴史秘話を服部剛先生に語っていただきます。

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(服部)
ポーランド孤児は、日本国民の大きな同情をよびました。
寄付金を申し出る人は引きも切らず、慰問の品を持ち寄る人、
無料で歯科治療や理髪を申し出る人、
学生の音楽サークルが慰問に訪れ、
慈善団体が子供たちを慰安会に招待しました。 

見舞いに来た日本人の子供は、
孤児たちのあまりにも惨めな服装を見て、
やおら自分の着ていた服を脱いで与えようとしたり、
髪に結ったリボンや櫛、飾り帯、
指輪などを取ってポーランド孤児に手渡したりしました。
こんなことは一度や二度ではなく、頻繁にあったといいます。 

皇后陛下(貞明皇后)も日赤病院の孤児たちを見舞われました。
貞明皇后は3歳の女の子を抱き寄せ、
「大事になさい。健やかに育つのですよ」とおっしゃりながら、
その子の頭を何度も撫でて慈しみました。 

当時、孤児だったヘンリク・サドスキさんは
「皇后陛下に抱きしめてもらったことが忘れられない」と、
母のような貞明皇后の姿が今も鮮やかに目に浮かぶと言っています。

こうして孤児らは健康を取り戻し、
回復した子からポーランドに送り届けることになりました。
ところが、出航の直前、孤児たちは乗船を嫌がったといいます。
どうしてでしょうか。
日本に来るまで人に優しくしてもらった
経験がなかった孤児たちにとって、
親身に世話をしてくれた日本人は、
すでに彼らの父となり母となっていたのです。 

そして、見送る日本人に対して泣きながら「アリガトウ」を繰り返し、
滞在中に習い覚えた「君が代」を斉唱して感謝の気持ちを表したといいます。 

また、航海中のことです。日本船の船長は、
毎晩、ベッドを見て回りました。
一人ひとり毛布を首まで掛けては、
子供たちの頭を撫でて熱が出ていないかどうかを
確かめていたのだそうです。

ある孤児は、

「その時の手の温かさを忘れない」

と回想しています。