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ピアノ発表会の曲を何に決めたか。。。の前に余談です
私の趣味はお酒だけではありません
子供の頃からクラシック鑑賞が大好きです
なぜクラシックが好きになったかというと、小学生の頃、私はバイオリンが弾けました
実家はビンボーなので、もちろん習い事ではありません。
通っていた小学校には国内でも珍しい「オーケストラ部」があり、3年生の終わりに入部すると、体が小さくて肺活量も少ないから弦楽器が向いていると先生に判断され、バイオリンがあてがわれました
そこでメキメキと力をつけ、6年生の時はコンマス(コンサートマスター)として指揮者の前で演奏していました。
うちの小学校のオケは先生がスパルタで非常にレベルが高く、全国大会に毎年出場していました。
なので、この時にバイオリンの演奏の他に、譜読みの力、全体の楽器を見ながら合わせる力が養われました。
目立つのが嫌いと言いながら、結局私は勉強以外にもたくさん賞をもらったり、こうやってなんだかんだと目立つ羽目になっていたんですが
大人しい性格だったので、幸いいじめっ子から目をつけられることはありませんでした
中学にあがる頃、市のアマチュアジュニアオーケストラからスカウトされました。
しかし、義父は話も聞いてくれないまま「そんなくだらんの必要ない」と断りました
もし、その時ずっとバイオリンを続けられる環境にあったら、もし優秀な先生に習うことができたらなら、私の未来は変わっていたかもしれません
そんな「たられば」のモヤモヤをずっと抱えたまま、親元を離れた私が20歳頃から始めた習い事がバイオリンでした。
昔取った杵柄で、10年ぶりくらいでも演奏はできました。
その後、バイオリンの先生の楽団に私も入れてもらい、アマチュアオーケストラで演奏していました。
忙しい仕事の中でも毎日のレッスンは欠かしませんでした。
バイオリンは3日も弾かなければ指の動きを取り戻すのに数週間もかかるからです
でも、長男を出産するあたりからさすがに続けられなくなり、バイオリンは辞めてしまいました。
「こんなのいらんだろ」とモラ男の夫に言われ、私は泣く泣くバイオリンを手放しました。
未だに後悔しています。
そのバイオリンは150年前につくられた美しい楽器で、弓とセットで150万円
20代前半の私には大金でしたが、惜しげもなく買った楽器でした。
それが売る時は二束三文でした。。。
長男は音楽にまるで興味のない子でしたが、偶然にも桜子が3歳で自ら
「バイオリンをやりたい」
と言ってくれた時は、とても嬉しかった
私も大人用のバイオリンを買い直し(ヤフオクの激安プライスで)、二人で一緒にレッスンを楽しみました。
私のひそかな夢は、高齢になって仕事を引退するような年になったら、アマチュアのへったくそな楽団でもいいから、もう一度バイオリンを弾きたい
桜子は2年生でピアノを本格的にやるためにバイオリンをやめてしまいましたが、親子でへったくそなバイオリンを弾けたらいいなぁ
というささやかな楽しみを持っています
私がピアノを弾けないにもかかわらず、譜読みの力が桜子よりもあるのは、こういった背景があるんです
コロナ以降、しばらくは行っていませんが、そんな私の癒しは、プロのバイオリン、ピアノ、オーケストラの演奏会に行くことでした
バイオリニストの五嶋龍君のファンクラブに入会していて、アメリカに住む龍君が子供の頃から毎年行っている日本ツアーのコンサートに行っているので、母親のような気持ちで成長を見守り続けています
龍君のツィゴイネルワイゼン
私も発表会で弾いたことがあります。下手くそだったけど
YouTubeで一番好きなのは、クライバーンのこの動画。
世界一すぎて千回再生していると言っても過言ではない
改めて見ると、本当に鳥肌モノ
クライバーン、かっこよすぎる
この動画の最初と最後に、当時の最高指導者フルシチョフが映っていますが、これは、1958年に開催された
「第1回チャイコフスキー国際コンクール」
旧ソ連が創設したこのコンクールは、第二次大戦後も続くアメリカとの冷戦時代に、国家の威信をかけた一大プロジェクトでした。
一応「国際」とは名付けたものの、ソ連は大ピアニストを何人も抱えた国。
他の国に負けるはずはないと踏んで開いたコンクールでした。
ところが優勝をかっさらったのは、あろうことか、敵国アメリカの23歳の新進気鋭のピアニスト
ヴァン・クライバーン。
モスクワ開催、聴衆者はほぼロシア人、審査員もロシア人という完全アウェイの中、30分にわたるクライバーンの演奏は、大きな感動を与え、スタンディングオベーションが8分間も鳴りやまなかったといいます
審査員はあくまでもフェアでした。
国籍、年齢関係なく、素晴らしい演奏者に点数を与えたのです。
ある審査員は出場者を全て0点、クライバーンに25点満点を与えたほどです。
ただし、優勝者の最終決定者はフルシチョフ。
厳しい冷戦のさなか、たとえ芸術文化の分野であれ「敵国」に後れをとるような結果を、フルシチョフは許すだろうか。
大多数の人々はライバルのロシア人、レフ・ヴラセンコが勝つと思いました。
国民もこのコンクールは公正を欠いた出来レースと懐疑的な目で見ており、ロシア人を勝たせねばソ連政府の威厳が落ちると考えたからです。
「審査員の総合点ではクライバーンがトップですが、アメリカ人に優勝を与えても良いのですか」
審査員長がフルシチョフに問うと、
「それが妥当なら与えるべきだ」と答えました。
大多数の国民の予想を覆し、フルシチョフはクライバーンに優勝を授けたのです。
笑顔のフルシチョフと固い握手を交わすクライバーン。
誰もが納得するほどの感動の演奏を、彼はアウェイの地で堂々と成し遂げたのです。
クライバーンがアメリカに凱旋帰国した際のパレードの様子
彼は一躍国民的ヒーローとなりました。
結果的にクライバーンの優勝は、冷戦の解決に一役買うほどとなり、まさに芸術が歴史を動かしました
クライバーンの功績を記念してアメリカで創設されたのが、
ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール
さらに、このコンクールで2009年に日本人で初めて優勝したのが、辻井伸行君