サクラです。


 「たんのう」とは、我慢や諦めの言葉ではなく、ありがたいと前向きに受けとめること


と、天理教のホームページに書いてありました。

 はいはい、目指すべきところはそこなのはわかりました。


 でも、そのときの自分は「ありがたい、ありがたい🙏と通っていた」と思っても、実はやっぱりただの我慢に ほかならなかった……ってことあるんじゃないかって思って。


 たとえば、ほとんど1人で子育てしてきた叔母がこんなことを言っていました。

「うちの若い夫婦の信者さん、直会で大人2人がかりで赤ちゃんにご飯食べさせてるのよ。そんなの妻1人でできるでしょうに!」となぜか憤慨めいていました。

 誰に迷惑かけたわけでもないのに…。


 叔母はきっと、自分は1人でがんばったのにあの嫁さんはラクをして!!ってことなんでしょう。不躾に言ってしまえば嫉妬心。でもこれが自然な流れなんじゃなかろうか。


 耐えるそれが たんのうだったのか、我慢だったのかは後輩(とみなす立場の者)ができたときにわかるのかもしれない。

 自分がやってきたことを後輩が平気でしてないのを見てイラッときたら、その人は「ありがたい」とは思っていなかったことになると思う。


 嫉妬心は自分が我慢してきたことの証なんですって。我慢してきた人が当然に抱く感情らしいです。

 だったら、何でもかんでも「ありがたい」に無理矢理 変換しないで、自分を大切にする方法を探す方が良くないですか?


 できないことはできないと示す、そのかわりできることはする。意見が異なる人とは妥協点を見つける・すり合わせる…などなど、自分を大切にすることに注力した方が良いと思います。

 前向きに受け止めるのは、やることやってからでもいいですよね。


 自分を大切にしてこそ、相手のことも大切にでき、感謝の気持ちが生まれる余裕が出てくるのでは。そのときに心から「ありがたい(有り難い)」と思えるのでは。


 私みたいに強迫観念からくる「私はありがたいんだ、私はありがたいんだ、ありがたいんだ、そう思えない私は人でなしなんだ」では、ほんとにね………。


 どうしようもないですね。






 白いビニール袋が川に落ちてると思ったら…美しい白鳥だった!!!

……と思ったら やっぱりただのビニール袋だった。ってことは世の中けっこうあるかも。