上野国の大名の参勤交代 講演
参勤交代と言うと江戸時代から始まったと思っていたが、鎌倉時代から始まっていた。
将軍と京都の警護、火番を交互交代で行っていた。その歴史は当然室町時代(守護大名)、
戦国時代、安土桃山(豊臣家に参勤滞在)、江戸時代へと引き継がれ、寛永12年【163
5年】武家諸法度制定によって、具体的に譜代大名は江戸に常時滞在、外様大名は東西の衆
に分けて交代で江戸に滞在することになった。寛永19年には(1642)譜代大名も参勤
交代を制度化。隔年交代、6月または8月に交代、半年交代等あった。その後参勤交代は享
和7年(1722)から上米の制により緩和に向かう。1万石につき米100石上納するこ
とで江戸在府期間を半年、在国1年半と削減した。江戸治安は安定していたのである。文久
2年(1842)参勤交代制はもっと緩和され、
3年に一度,在江戸100日となった。(藩・侍助かるぅ~)参勤交代と言うと将軍警護は
表向きで、権威を示し、侵略をさせない、騒動起こさせない、金を使わせて武器を整わせな
い策略と勝手に思っていたが、講師の竹内氏はそのことには触れずだった。
講義の本当のタイトルは「玉村を通った江戸時代の殿様たち」は資料が微量であっという間
に全国区の参勤交代の講義になった。それでも玉村宿のことを期待している人の為に頂い
たレジメから抜粋して綴ってみよう。江戸時代玉村地域には日光例幣使街道、佐渡奉行街道、
三国街道、中山道と4つの街道が通過した。更に烏川等河川もあったから渡船も往来した。
参勤交代は越後、下野、信濃等、下りに江戸から(中仙道経由)美濃,近江を経由して京都
へ至ることもあった。沼之上村にある烏川渡船では佐渡奉行だけでなく、沼田藩土岐家やそ
の他の大名が通行した際、無償で渡船役を勤めたと言う記録が残っている。又文政9年(1
826)常陸の国結城藩水野家,志摩国の鳥羽藩稲垣家の五料宿通行、宝暦4年(1754)
前橋藩主松平大和守家の川井通行の史料も残っている。上州大名も江戸時代から参勤交代
を始めたのではなく、もう武士が誕生した鎌倉時代から京都護衛に交代で赴任していたの
である。「徳川時代之武蔵本庄」と言う資料には寛永10年(1633)上野国川合(現玉
村町板倉周辺)から武蔵国本庄(現本庄市)の本陣(藩主の旅館)を移す。寛永頃までは
玉村経由で江戸・金沢を往来していたことが記されている。レジメでなく口で語ったことで
面白いなと思ったのは仙台藩の伊達正宗一行が参勤交代で江戸へ向かう途中,橋が崩れた。
事故か陰謀か、反逆児抹殺のため仕込んだ策略か?あり得る所業だなと聞いていた。
上野国大名は居城あり4家➡高崎・館林・沼田・安中、居城なし4家➡在所に陣屋
小幡・伊勢崎・七日市・矢田、前橋藩は武蔵川越藩分領、皆従順なイエスマン藩であったた
め幕府による策略はなかった。
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