DVD 『秋刀魚の味』を観て

 

若い時から老成していて,小津安二郎の映画を好み、落語をわざわざ

 

東京寄席小屋まで見に行く同僚達がいた。当時は’80年代でハリウッド映画が

 

隆盛でドンチャカドンチャカ賑わっていた時代である。自国の文化より

 

派手で刺激的なアクションに憧れた。しかしあれから半世紀、顔は皺だらけ

 

心も丸みを帯びてくると、自国の文化、たたずまいが優雅で、ゆったりと

 

時を刻んで過ごさせてくれるものに価値観があることが分かる年代になってきたことに

 

気付く。落語はわざわざ上京して聞かなくても、テレビやラジオで聞けたが

 

小津安二郎映画となれば今世のようにDVDやレンタルがあった訳ではない。

 

映画の上映はオーナーの一方的な買い付けで上映され、邦画をやる上映館が

 

そう多くあった訳ではない。時代は目まぐるしく変遷し「ぴあ」と言う

 

映画がどこで、何を上映しているか、美術館や博物館で何を展示しているか

 

情報誌が出回って来るのはずっと後のことだった。知る機会は新聞の小見出しや

 

友人とのコミュニケで分かるのだった。当時は日本でも海外でも黒澤明監督

 

は脚光を浴びていても上映や情報は少なかったと思う。しかも今では双肩する

 

小津安二郎監督作品は黒澤明に比べればその肩は少し下がっていた。

 

マニアックなファンが一握りいたに過ぎない。日常の家族間の騒ぎなど

 

何処が面白いのか永遠の謎のようだった。団塊の人々はまだまだ当時

 

チョンガ―で男も女も官能的で強い刺激の作品に着目した。

 

―——それは小津安二郎が描くお得意の主人公が一人残される老人や

 

大事に育てた娘が見ず知らずの馬の骨にかっさわれて行かれるかと

 

嘆くと同時に残されたわずかな人生のどこに生きがいや幸せを見出したら

 

いいかを問いかけるストーリーでもある。ウンウンよくわかる、悲しいよな

 

淋しいよな、腹も立つよなと他人事なら口先で済むが、自分の娘のこととなれば

 

理性を失った。そんな複雑な父親の心境を笠智衆の「秋刀魚の味」や

 

佐分利信の「彼岸花」は小津安二郎独特のローアングルで描いている。

 

身につまされる父親の心境とは裏腹に共演する妻や娘のセルフ(岩下志麻や山本富士子、

 

 有馬稲子や桑野みゆき)は淡々と

 

一本調子でウキウキと語られている。そこに強権で社会的地位もある父への抵抗や失笑もある。

 

だから父親以外のセリフはコミカルでクスっと笑みがこぼれる。人気、実力

 

両輪の黒澤明にもシビアな権力批評がある中、ケッコーユーモア台詞があった。

 

それは必ず酒宴の席で熱っぽく語らせている。今は当時詰まらないと思っていた

 

リアリズムが楽に親しめる年頃になった。見たこともなかった小津安二郎ワールドに

 

高齢になって嵌ってしまった。今ならどこの図書館にも置いてある黒澤明の

 

「生きる」同様何回見ても味わいがあり深みを感じ取れる。今は便利だよな、

 

自分の好きな映画が空いた時間で見れる。これ以上贅沢、ゴールデンタイムはない。

 

あっ?書き忘れたけれど「秋刀魚の味」は一人娘役の岩下志麻を婚期が来るまで

 

重宝して使ってしまった老人の話。「彼岸花」は他人の娘の結婚話には

 

快活だが、自分の娘の結婚話には自己主張強く、恋愛結婚など認めない

 

日本戦後の価値感過度期の家族を描いている。特に女性を描く場合

 

カメラ正面を向いて淡々と語らせているのが愉快。レポーター調なんである。

 

それに比べ男優はいつも横を向いて、苦虫潰し、嘆息しながらこぼすから

 

対比がとても新鮮に思える描き方であった。そこが小津安二郎の格別な魅力なのかもしれない。

 

 

 



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