定本 伊勢崎風土記 を読んで

 

大変な本を読むハメに陥った。群馬の広瀬川を(仙台の広瀬川

 

は有名だが)学んでいる内に伊勢崎風土記がヒットした。

 

広瀬川はこの江戸編集の本が書かれたときは「寛政10年:1798年」此利根川と言い前橋の箱田あたりから別れ、新田郡平塚

 

あたりで再び利根川と合流し、茨城を抜けて太平洋へ流れ込む。

 

風土記と言えば出雲国風土記(西暦733年の地誌・神話や伝説が中心)があり、学生時代科目を選択して

 

単位を取得した。だからあまり違和感はない。群馬では

 

前橋、高崎、安中、伊勢崎位しか風土記がないことを知った。

 

これらは殆ど藩主の命令で藩の歴史や地形、城のことを綴ってい

 

るが、意外に大きな藩、館林や沼田には残されていない。

 

伊勢崎藩も2万石で決して大きな藩ではなく、前橋藩を本家とする

 

小さな藩であったが、なぜこのような小さくも目立たない藩が

 

風土記を残せたかと言うと家老の関重嶷(しげたか)と言う人物

 

が実に勉強家で歴史と言うものに非常に関心の強い親子だった。

 

だから前橋藩が前橋風土記を書く。高崎藩が「高崎志」を書く、

 

安中藩が「安中志」を編纂すると親子で居てもたってもいられな

 

くなった。自分の藩よりずっと規模が大きい館林藩、沼田藩をさ

 

ておいて編纂してしまった。当然すぐには陽の目は見ず、

 

定本~写本を繋いで陽の目を見たのは大正時代であった。

 

この本は江戸時代の武士の教養であった通り漢文で書かれている

 

為、私には読めない。本書は原文~読み下し文~最後に

 

篠木弘明氏の解説に寄って、その内容を知ることができる。

 

序:易日、省方観民説教・・・・・易曰く 方(くに)を

 

省み 民を見て教えを説くと・・・・令和の上層部とは何か

 

違う。選挙での御機嫌窺いとは真逆。本書には天明3年

 

に起きた浅間山災害の模様も書かれ、その次の農業不作の

 

飢餓の有様も綴られている。NHK[べらぼう」で描かれたような

 

これを機会に出版界挽回のチャンス、吉原モンが日本橋へ

 

雪崩れ込む機会だ~なんて流暢なことがまかり通っていたのか

 

どうか知らない。江戸より上流にあった上野国(ぐんま)

 

の川では(利根川や広瀬川)人間や動物の死体がどんどん

 

流れ込んだとある。陽が差すようになるまで月日がかかり

 

農作物が実らなかった。今富士山や南海トラフが起きたら

 

江戸時代とは経済規模がまるで違うので、戦争被害を受けたよう

 

な無惨な有様は必至であろうな。何か嫌だな~。

 

伊勢崎風土記はコンパクトで決して大きな冊子ではないが

 

令和の子孫たちが読むには江戸人の生き方を知る上で

 

非常に面白く読める名著であることは嘘ではない。

 

伊勢崎藩の様子を記録してくれた関重嶷(しげたか)親子に

 

敬意を表すと共に感謝申し上げる。

 





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 P.S2017.12月我がblogより下記文章を見つけたので付記する。