『広瀬川と連取――恵みと災い』講演

 

 

第二回連取町ふるさと学習講座が会議所であった。

連取町の由来は広瀬川の上り荷船を岸から三人程度の

 

綱取人夫が引いたことによる。江戸時代上りは年貢米や絣、

下りは塩や食料品を運搬したが、勿論途中から利根川に

 

合流したが広瀬川は前橋とか伊勢崎に堰や水門があったので

往来が多かった。当然他の都市にも船を引く地名が残っている

 

場所があって隅田川の「曳舟」はその往来が多かった

ことに由来する。昔々偶然にも父親の戦友が曳舟に住んでいて

 

二人で遊びに行ったことがあった。その頃私たちは前橋に

暮らしていて伊勢崎に住むようになったのは、私が独立して

 

家族で暮らすようになった時ではあるが・・・・・。

広瀬川は昭和初期農業用水として、農業人口が多かった

 

伊勢崎農民の田植え援助に護岸を作って洪水から守った。

伊勢崎が古来真っ平らな盆地なのは、大雨で利根川が氾濫

 

するたびに土砂が敷き詰められてフラットな地形を作り出していた。伊勢崎には大きな山がない。坂道も少ない。大間々から

 

広がる扇の先端に当たる町々である。農村にとって恵みの大川

が長い間、広瀬川だったのであったが、当然台風シーズンになると

 

その雨量は半端ではなかった。昭和22年カスリーン台風では

床上浸水が多く、死者や行方不明の被害があった。でも連取では

 

他県で水害と言う言い方はなく大水と言う風習がある。決して

海に住む人が津波にあって大きな打撃を受けても海を悪者に

 

しないように連取でも自然の猛威は水害とは呼ばないのである。

 



画像>江戸に向かう人夫たちは当然、連取町に病原菌をも

運搬することになる。コロンブスが世界隅々性病や風土病をはやらすのと同じように・・・・・。

 





画像>会議所の敷地内(連取の松や菅原神社もある)には芭蕉碑もあれば今村岨雲の俳句碑もある。

 

―——この日第3回のやるテーマがいきなり決まって今村岨雲

をやりましょう、急に議長が言い出した。非常に計画性もなく

 

講演もざっくばらんに講師や聴取者を巻き込んで和気藹藹

ムードでやる連取の歴史研究会は非常に楽しい。因みに

 

今村岨雲は伊勢崎出身の俳人で俳号、本来は医者である。