『ドリフターズとその時代』を読んで

 

志村けんの残念な死から5年経った。年に数回志村追悼番組があるが

 

懐かしく楽しく笑って魅入ってしまう。リアルタイム80年代~90年代

 

子供たちと一緒に笑い転げた。本書は(笹山敬輔著:文春新書)バンドで出発した

 

グループの話。芸名名付け親がクレージーキャッツリーダー・ハナ肇。志村けんが

 

コメディアン目指して最初からいかりや長介の家を目指したわけでは無かったこと。

 

そんな話を書き残しておきたいと思う。志村けんはホント笑いの王様であった。

 

笑を生み出すために非常に努力した人であることが分かる。ドリフターズは渡辺プロに

 

所属していて、当時は一番大きい芸能プリダクションだった。あの伝説のビートルズ

 

日本武道館公演の前座を勤めるほどの立ち居ちだった。その時志村けんはまだメンバーで

 

はなく、観客として武道館にいた(学校をさぼって)以後ドリフターズも5人編成になり

 

個性的な芸名をつけようと言うことになって、飲み会でハナ肇が皆を呼んで芸名をつけ始

 

めた。先ずリーダーいかりや長一。長一は「一」が芸能では伸び悩むと言うことで長介。

 

いかりやは芸事は水ものだからこれは良し。寿限無寿限無・・・ちょうきゅうめいの

 

長介から来ているわけでは無かった。続いて加藤、よく加藤ちゃんですと言っていたので

 

『お前は加藤茶でいい』仲本はいつも怪我ばかりで工事中、仲本工事だ。荒井は危ない奴だ

 

荒井注。高木は皆にブータンと呼ばれているから「高木ブー」と決まった。その時志村けん

 

がいたらハナ肇は何と命名したか知る由もない。志村けんの命名は自ら父親の名前を取っ

 

てそうした。父親は元校長で家では大人しい人だったと言う。ドリフターズ伝説の

 

8時だよ!全員集合(TBS)は1969年放送を開始する、公開番組で大道具に800万円

 

かけ最後にはぶち壊す迫力が大ウケで高視聴率を生んだ。志村けんも年季が入って来て

 

ドリフターズのエース加藤茶と二枚看板となった。いよいよドリフターズの黄金時代に

 

入っていったのである。余りにエロチック、乱暴な言葉使いで教育委員会や父兄にも

 

顰蹙を買った。でもそんなクレームなど何のその学校の先生や親の吊りあがった目など

 

どこ吹く風、当たらしい笑いの風を島国に吹かせ続けて行った。

 

 



 

画像>志村が世に出る結果となった東村山にある記念の銅像。又お盆になったら

 

志村けんの笑が見られることを期待して合掌!

 

 

 

 

 

動画>

 

 肝心な事を書き忘れたので付け足しますが、志村は最初に由利徹の弟子入りを希望した。しかし三人いるので断られた。由利はいかりやの付き人を薦めた。うまく付き人がいなくなったので2年位修行した。志村はコメディアンを目指すなら社会人生活を経験しなければいけないと突然辞めて、アルバイトをいくつかやった。2年やっていかりやの元に戻ったら、いかりやは烈火の如く怒り、付き人にしないと言った、それで加藤茶が面倒みると言ってくれた。目標に向かってまっしぐらな姿勢が見える。