「長嶋茂雄 永遠伝説」を読んで
6/3長嶋さんが亡くなられた。TVで特番、新聞で特集が組まれている。
球史の偉大さは報道され、我々世代なら誰でも知っているが、生い立ちに
ついては多く語られていない。又人格についても、現代はヒーローインタビュー
とかトーク番組などあってスーパースターの性格が垣間見えることはあるが
昔はそういう番組が皆無であった。後年になって長嶋さんをギャグったり
(口真似や語り)楽しい笑いのエピソード盛りだくさん,側近の人や
関係者から伝わってきたが、リアルタイムでは雲上の人ここにあり!
と屹立していたにすぎん。本書もこの辺を集録しているが、マイブログ
ではプロに入る前の経緯と少年時代にスポットを当て、長嶋さんを
忍んでみたい。長嶋さんは1936年(S11年)2月20日千葉県
印旛沼近くの臼井町で生まれ育った。兄姉4人の末っ子、家族では
ちびと言われ、まるで子犬のように可愛がられた。野球はあの頃の少年が
皆そうであったように布で作ったグローブやボール、竹で作ったバットで夕日が落ちる迄
楽しんで勤しんだ。高校は無名の佐倉一校だったが、立大に入学すると監督砂押に
期待され、大いに将来嘱望され、特別扱いされた。それは上級生のやっかみにもあい、
砂押監督が止める羽目に陥った。同じ頃臼井町助役だった父親も病死し、
長嶋さんに試練が訪れた。長嶋さんを推す砂押監督期待に反して、結果が出ないまま
1~2年ずっと出場していた。然し長嶋さんは砂押監督去りし後、噓のように
目覚め打ち始めた。4年経ってみれば六大学新記録になる8本のホームランを打って
ファンを驚かせた。プロ野球の誘いも生前父親が巨人のスカウト(長嶋さんが大学
1号ホームランをバックスクリーンで拾った人)と約束を交わしていたので(学費)
立大出身の先輩大沢親分が南海から栄養費と称して渡していた経費は役に立たなかった。
師弟関係だった砂押監督は大リーグに精通していて、将来ヤンキースのディマジオのような選手に育てたかった。父親はなるなら富士山のような選手になれが遺言だった。そして大リーグ行きを期待して練習が終わると、打撃は4年生に
守備は3年生に個人レッスンするよう伝えていた。そして結果が出始めるのが2年秋
砂押監督なきあと大輪の花は開花した。先見の明ある監督だった。長嶋さんの教えは今度は
監督になった時、このままドラフト1位籤を引いた松井秀喜に引き継がれた。
監督在籍中どんな時もマンツーマンで松井を呼び寄せバットを振らせ、ディマジオを
語ってファンのために野球遣る精神を説いた。観客の為に全試合出ることを強く語った。松井は長嶋さんが巨人を去ったら躊躇なく
ホントにヤンキースに入団してしまった。裏切者と罵られても渡米して夢を貫いた。
長嶋さんと松井秀喜には面白い共通点があって、二人とも入団前までは
阪神ファンだった。長嶋さんは藤村冨美男に憧れ、松井は縦縞ユニフォームが
着たくて、ジャイアンツ指名にがっかりした。長嶋さんは3年目に大リーグに行ける
チャンスはあったが、人気のプロ野球を目指す球団の方針で消されてしまったが
巨人に残ってくれたお陰で野球人気に火が付いた。テレビと長嶋さんのダイナミックな
躍動感が多くのファンをブラウン管から目を離せなくしたと思う。現代はその長嶋さん
の意志を継ぐように大谷翔平が活躍している。これからどんどん第2の翔平が期待され登場してくることだろう。
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謹んで御冥福をお祈り申し上げます。私は長嶋さんの現役時代、後楽園球場外野席で何回か試合を見ました。150円の時代です。ゲーム前の練習で外野席近くまで来てくれました。相手チームのシピンに声かけ、気さくな一面を見せていました。長嶋さん特有のサービス精神だったのでしょう。
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高校時代飛距離が凄く、校舎の屋根瓦やガラスはもう滅茶苦茶だったという。
立大練習は夜やるとナイター設備がないので、ボールに石灰を付けて延々やっていた。
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