小林旭作:「マイトガイは死なず」を読んで パートⅡ

 

 

前回書いた「マイトガイは死なず」の続き。それを読むと小林旭自身が書いた

 

楽曲のことが読める。「女を忘れろ」1958年、「ダンチョネ節」1960年

 

「ダイナマイトが百五十屯」1958年、そして私が唯一持っているレコード

 

「昔の名前で出ています」1975年、➡この歌のお陰で、ゴルフ場経営に失敗し

 

莫大な借金を背負った小林旭が巻き返すことができたと言う。丁度8トラックの

 

カラオケブームが起きた時期で小林は自分でも幸運の星の下に生まれたと自負しているが

 

彼の楽曲はその年齢の節々で必ずヒット曲を出した。然し根っからの古~~い人間です

 

からと自称する通り、印税とか権利とかに疎く、マネジャーにまかせっきりにしたため

 

本人の懐に入ることは少なく、人の褌で相撲を取るハイエナや銀蠅如き人種に旨味を

 

殆ど吸い上げられていた。マァそういう所が小林の素地で、お人よし、画面からにじみ出る

 

昭和男の長所でもある。出演した映画については「渡り鳥シリーズ」のことは

 

一作も語っておらず、裕次郎と共演した「幕末太陽伝」1957年、日活で当時

 

ライバルと会社が推し進めた津川雅彦と一緒に出た「孤独の人」1957年、

 

浅丘ルリ子と共演した「絶唱」1958年、この映画は後に舟木一夫と和泉雅子も

 

リバイバル作品を作った。♪舟木一夫がこの歌を悲しく歌っていたな。

 

「黒い傷跡のブルース」1961年、ではやくざもんを演じ、共演が16歳の吉永小百合

 

だった。役は恋人だったが、まだ小百合はとても幼過ぎて、カメラマンが如何に成人

 

した女に写すかアングル・照明に苦慮していたと述べている。「地球40度線幸せを

 

かける男」1968年、これもやくざ映画で、やがて東映やくざ映画への道が開く。

 

東映俊藤プロデューサーが小林を見初める。東映には鶴田浩二、高倉健、若山富三郎

 

…錚々たる猛者連がいて、入社に伴い挨拶してくれと俊藤に言われるが、こっちだって

 

日活のエースだぜと言うプライドがあって、それは無視したらしい。流石小林らしい

 

エピソードである。「あ~決戦航空隊」1974年、これは鶴田浩二の企画で製作した映画。

 

鶴田が神風特攻隊を作った大西の役で最後に腹を切る。小林はフィクサー児玉誉士夫の役

 

で、演じるにあたって色々本人から手解きを受けた。ロッキード事件が起こる2年前で

 

ある。色々出版に当たって全体的にいえば、鶴田浩二に至っては悪印象の人物像しか

 

書かれていない。美空ひばりのことでとやかく言われ、日活から来たからといちゃもんを

 

付けられ、それが面と向っては言わず、目を合わせず言う。一度ぶん殴ってやろうかと

 

気構えたが俊藤プロデューサーに「止めとけ」と止められたと言う。マァ大人の解釈

 

というものである。性格は卑しくても当時鶴田は東映の金看板を背負っていた訳である。

 

この書物で残念なことは、こういった生涯本を出すにあたっては、後方に年度別生い立ち

 

出演や主演の全作名、そして全曲名がリスト化するのが定番だが、そういう資料は

 

ネットのエクスペディアを見ろと言うのか、付記されていない。ちょっと残念である。

 

いずれにしても小林旭と言う映画人が映画全盛時に為した功績と栄華、いかなる人物で

 

あったかを知る絶品の資料であることは間違いない。

 



 

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