映像の世紀・ルート66を見て

 

一昨日NHK  テレビ22:00「映像の世紀」でルート66の歴史をやっていた。

 

 

何でだか分からないがある年齢になってからルート66のロゴが気になりだし、

 

 

土産物屋等でルート66のグッズがあると、場所の懐かしさと郷愁感に駆られて

 

 

買い求めるようになった。そんなに数はないし、昔同じタイトルで学生がシカゴからサンタモニカまで旅する白黒テレビ番組があ

 

 

ったが何回も見た記憶はない。そう言う番組が放映されていたね程度の記憶である。だけどルート66のロゴを見ると何故か胸が

 

 

ときめく。

 

ルート66は1926年シカゴ~カリフォルニア間を横断するよう建設された、アメリカ最初の国道だった。日本では最初の国道

 

 

が出来れば1号線と名付けるが、アメリカはおしゃれだから「66」はゴロがいいからこれで行こうと「ルート66」と名付けら

 

 

れた。

 

決して66番目にできた国道ではなかったのである。大西部を道が横切る為、自然の猛威とも戦わざるを得なかった。ダストボウ

 

 

ルと言う竜巻はひどく、毎年人々に甚大な被害を与えた。農家は作物が実らず、アメリカ西海岸へ行けば、職も幸もあると夢を乗

 

 

せてルート66を西へ向かった。大不況の時ボニーとクライドと言う銀行を襲っては隣の州へ逃げ込む男女二人の強盗犯が現れ

 

 

た。日本でいう鼠小僧次郎吉のように義賊として国民に慕われた。

 

その現金奪取が痛快でアメリカンヒーローになった。ヒーローもルート66路上で待ち伏せした保安官集団に150発もの銃弾を

 

 

ハチの巣のように浴びて絶命した。アメリカ人らしい殺戮だった。アンタッチャブルのドラマをみても形が崩れるほど弾丸をぶち

 

 

 

込む。

 

やがて世界第二次大戦になると軍需産業がカリフォルニアに起こり、大挙雇用が必須となりルート66が移動の手段となった。仕

 

 

事を求めて失業者が西を目指した。

 

しかし同時にカリフォルニアに住んでいた9万の日系人は家を追われて、砂漠地帯の収容所へ移動させられた。その時積み荷して

 

 

移動したのもルート66だった。戦争が終わると

 

フォード等自動車産業の時代に突入、ルート66の道路沿いにレストランやモーテルの建設ラッシュが始まる。豊かで温かいアメ

 

 

リカンドリームの始まりであった。ハンバーガーのマクドナルド1号店、夜も眠らないラスベガスギャンブルの町の登場である。

 

 

と同時にネバダでは物騒な水爆実験が何度も繰り返され、観光の名所にもなった。ルート66の歴史はいい面だけではなく、こう

 

 

した負の遺産も含めて60年余のストーリーがあった。ジャズメンマイルス・デービスや黒人ミュージシャンが台頭してきたのも

 

 

この時期だが、人種差別は酷く、彼らはグリーンブックと言う黒人を人として受け入れてくれる施設のガイドブックを片手に南部

 

 

を音楽巡業した。見ず知らずの土地へ行くには非常に便利なガイドブックで相当な部数黒人に売れた。リンカーンの時代黒人は奴

 

 

隷解放されてはいたが、まだ

 

白人の横暴は公民権運動があっても続いていたのである。アメリカ人の保守性の強さを表す映画ストーリーの紹介をしてルート6

 

 

6の感想を終える。イージーライダーと云うピーターホンダ監督作品、彼の父親は昔「怒りの葡萄」という文芸作品で農民の役を

 

 

演じていた。ルート66周辺の農地は年中日照りと竜巻で作物が実らない血のにじむ苦労を演じていた。70年代になるとアメリ

 

 

カはベトナム戦争反対者が続出する。ヒッピーや薬物者が現れる。それに戦争帰りの米兵の精神不安定者。然し白人至上主義体制

 

 

保守を望む人たちは

 

ただ髪が長いと言うだけで憤りを感じ、オートバイでルート66を突っ走る若者を撃ち殺してしまう。白人が白人を・・・である。

 

 

それから10年余りでルート66は鮮やかな歴史に幕を閉じる。1985年広い一方通行車線の必要に駆られて廃線を余儀なくさ

 

 

れた。

 

でも近年古いアメリカ人たちがルート66を偲んで、一カ所に集まって交友を温める日を設けていると聞いた。想い出深い幾

 

 

つかの映画の舞台となり、アメリカの栄枯盛衰を知るマザーロード、そんなところがまだ行ったこともない私でも忘れがたいロー

 

 

 

ドとして、グッズを見るだけで心躍り買いたい衝動に駆られてしまう原因なのかもしれない。

 

私は日本でこういう忘れがたい街道を持っていない・・・・・。

 

強いて言うなら上州から新潟日本海へつながるルート17かな。

 

80年代子供たちと夏休み、海岸沿いにテントを張る為走ったルート17.山道のアップダウン繰り返すとやがて夕日を浴びた日

 

 

本海が視界一杯に広がった。

 

 

家族5人で共有したあの海の美しさと導いてくれたルート17の想い出は今でも胸奥で煌めいている。

 

 

 

 

画像>2010年頃にもNHKでルート66特集があった。

 

 

 

 

画像>荒野を走る一直線の道路

 

 

 

 

画像>アメリカに行った時見てみたかったこの道路標識