鈴木貫太郎顕彰会発足式と前橋地裁傍聴
前橋の群馬会館で鈴木貫太郎氏【1867~1948】の講演があるというのを新聞で見たので、やって来たが我予期したものと
違っていた。開演前でまだ時間があるので、会場の群馬会館の真後ろにある地裁で裁判を久しぶりに傍聴しようと思った。時間が
1:30の第一法廷「覚せい剤取り締まり違反」新件が始まるところだった。容疑者は伊勢崎の女性。証言に立って話し出すと泣
き出して語った。私は奴隷、結婚して2年目の夫が嫉妬深くて買い物にも行けない。部屋にはカメラが据えられ自由もない。DV
に会うので警察に何度も通報して難を逃れた。別れたいが許してくれない。もう夫の元には帰りたくない。
弁論尋問「××さんの髪が短いのは何故ですか?」「夫に切られてしまった。」
覚せい剤はいつ打ちましたか?「今年1月です」
検察尋問「右腕に覚せい剤の注射跡がありながら警察に通報したのは何故ですか」
「捕まればもう夫から逃れられると思ったからです」××さんは覚せい剤常習者ではなく、夫が打つ時、無理やり打たれた、まだ
二回しか打ったことはない。打たないと暴力を振るわれるので仕方なしに打ったと泣きながら証言。今の審議は早い。30分経っ
て
検察官「懲役1年が妥当と思われます。」弁護側「執行猶予が妥当と思われます」
裁判官「では次回判決と言うことで・・・・」三者で日時を調整して、バン、バン
ハンマーの音、閉会します。
画像>群馬会館、この近くに桃井小学校がある。貫太郎はここのOBで私の先輩にあたる。
群馬県は4人の総理大臣を輩出していると言われるが、戦前4か月ではあるが鈴木貫太郎も総理大臣になっているので実際は5人
である。然し生まれは千葉である。
画像>鈴木貫太郎のファイルを頂く。卒業した桃井小学校には「正直に 腹を立てずに
撓まず 励め」という自筆の石碑と歌があるが残っている。
群馬会館に戻ると顕彰会発足式(立ち上げた理由は大河ドラマ化への推進らしい)は始まっていて、鈴木貫太郎氏の孫娘の道子さ
んが語り始めていた。「祖父は一度死んで、冷たくなったんですが輸血をしたら生き返ったんです。」これは2.26事件で青年
将校に数発の銃弾を受け、自宅の寝室で倒れた時の模様を道子さんが語っている。この時貫太郎さんは侍従長と言う役職であった
が、暗殺の対象になっていた。
中国にいる関東軍の行き過ぎを非難した向きがあると判断された。もう軍部はストップがきかなくなって、政治家が何と言おうと
武力に任せて突き進んだ。貫太郎氏が青年将校たちに撃たれた時の模様を自伝に書いていて、それはそれは生々しい現場のやり取
りを再現している。貫太郎氏は暗殺隊が近々来るのを予期していた。早朝4時貫太郎氏は自室で暗殺部隊に囲まれた。撃たれる理
由を尋ねたが誰も答えない。これは首謀者の命令で侵入した者達だから、敢えて聞いても何も言わないだろうと「お撃ちなさい」
と言った。一発目不発、
二発目股の間、三発目左胸、貫太郎は崩れるように倒れた。4.5発目は頭と肩に一発づつ
周りの兵士たちが「トドメ、トドメ!と連呼する中、一人の将校が貫太郎の口先に銃口を向けた。奥さんがそばにいて「それだけ
は、やめて!」と懇願した。そこへ将校が(大尉)
やってきて、血みどろの貫太郎を見て「トドメは悲惨だからいい。」大量の流血から助からないだろうと判断した。貫太郎はトド
メを刺されずに済んだ。皆は貫太郎に向かって敬礼し、捧げ筒をして貫太郎邸から立ち去った。最初報道は貫太郎死亡と伝えたが
後に手堅く看護されて重症に書き換えられた。撃たれた模様は「鈴木貫太郎自伝」(中央公論新社)に細かく書かれている。
当時明日の日本は軍部が担うか、そうでないか微妙な風向きにあった。日本の軍部が強固になって海外進出するようになるのも怖
い話だが、近隣諸国の軍備が増大されて威嚇されるようになるのもこれまた怖~~い話である。暴力はいけません、会話しましょ
う、地裁で辛い傍聴をして、群馬会館で孫娘の2.26事件を聞いて悍ましい気持ちになった。家族も国家も平和が何よりです。
♪誰を歌ったものでしょうか?懐メロが好きだった友を思い出す♪


